カフカについて(第二回)

承前

 

■『審判』、そして『城』と彷徨

 ブランショは『城』に高い評価を示している。それも、『審判』との対比においてである。それは『審判』が一応の終着点=結末を迎えたことによるのだろうか? ブランショの援用を先送りにして、カフカ読解の研究の中でしばしば言及される議論を紹介しておこう。

 それはこういうものだ。簡単に言えば、カフカ作品の主人公はそれぞれの場面において「環世界」を生きているというものだ。というのは、たとえば『変身』だが、グレゴール・ザムザはのっけから毒虫に「変身」している。それは虫の言語を話し(ピイピイ音)、虫の言語であるがゆえに種を超えた人間たちには伝わらず、しかし毒虫ザムザはかつてと同様に人間の言語を聞き取ることができるのである。これはいわば、ザムザの視点が完璧なまでに人間から人間ではない「毒虫の視点」に変更しているということだ。彼はステーキやハンバーグには目もくれず、ごみ屑や腐ったものがとびきり豪勢で食欲をそそる物品に見えるのである。それが世界の完全なる変成、「環世界」だ。このことは、『審判』にも『城』にも大きくあてはまる。『審判』では、驚くべき最初の一文二文でKが「被疑者」とされてしまう。容疑者と言ってもいいかもしれない。それを通じて彼の以後の世界は、ありとあらゆることが被疑者の観点——というより、世界がKを被疑者であることを断定=宣告するかのようにして立ち現れてくるのである。Kはなぜ自分が逮捕されたのかを全く考えることも無いまま、未来に対して裁かれうる危険性とともに彼の視野・思考を全力で狭まている。だから彼には心地いいことはほとんど起こらないし、訴訟=世界は彼に意地悪や不快な、不条理な思いをさせることばかりだ。これは世界が変わったというよりも、Kの視点であるところの被疑者としての観点が世界そのものを襲ったのである。

 『城』でも状況は似たようなもので、測量士Kは徹底して彷徨することを義務付けられている(だが、いったい誰に?)。城は見えるのに、いっこうにたどりつかない。最初の時点からそれは約束されていたのである。内包=排除の構造によって、測量士Kが町ばかりをうろちょろするという風に。

 ……とすると、〈彷徨〉の第二の条件は、最初から全てが(未来に向けての諸過程が)義務づけられている、ということだろうか。少しまとめる。

 

〈彷徨〉の第一条件 人または彼/女が社会や家族や国家や世界といった集団からの、内包=排除をくらうこと

〈彷徨〉の第二条件 最初の一歩から全ての過程が導出されること

 

これで十分に私たちが解明したいところの〈彷徨〉の概念を定義づけれただろか? まだ不十分である。もう一度話を戻す。

 彷徨とは、終着点=目的を有することなく、あてもなくさまよい移動しつづけることである。そしてそれは、はじめの第一歩という「命がけの変化」ですでに決定づけられるのだ。それはある意味で、私たちの生に似ている。私たち人間は、「未だ存在せぬもの」から、存在性を被投されるのである。〈存在〉の消極的享受。これが彷徨であったのだ。

 

つづく