ある男の手記 9/4

 

たとえば、精神科に行くきっかけなんてものは、やはり憂鬱症(うつ病)であるケースが現在でも多いのだろう。なんらかの事情で抑うつ状態になり、眠れない、だるい、焦燥感に駆られる、とかいうふうに社会生活を非常に送りづらい状態にまでなったとき、精神科か、もしくは心療クリニックの門を叩くわけだ。

 

 基本的には、不眠、「眠れない」というのは社会生活上致命的な点なので、医師は最初は睡眠薬を処方しようとするだろう。しかし、たとえば僕は、自分に合った睡眠薬に出会うのに、十年以上かかってしまった。たいていの薬は効き目がよすぎて一日中眠ってしまうほど睡眠欲が過剰か、もしくは2,3時間で目が覚めてしまう、あるいは起きた後の気分が非常に悪い、悪夢ばかり見る、といったようなケースもあった。

 

その人に、どんな睡眠薬が効くか、これだけでも大問題である。しかし、きちんとした資格のある精神科医が、決める事柄である。しかし、先生は優秀な人ばかりとは限らない。あ、これダメでしたか、次はこれでいきましょうか、となると次は……こういうこともザラにある。人はそれぞれ身体の特徴や性質がまったく異なるので、睡眠薬も最終的には"その人にしか合わない"もの、個別性といったものがあるらしい。一般的にはこういう効果があるけど~は建前の話なのだ。一般論が、しばしば自分には通じないといった話が多いのが、睡眠薬にまつわる界隈の鉄板ネタである。

 

ともあれ、僕は睡眠薬については色々と苦労してきたものの、この睡眠の問題さえクリアできれば、抑うつに陥っていた人はだいぶ助かるに違いない。そして、もともとその抑うつを引き起こした第一次の——根っこにある原因。これと向き合うことが必要になってくる。これは、医師との面談や、もしくは心療臨床士(一度も使ったことないけど)とのカウンセリングといったものも必要になってくるかもしれない。とにかく、病態の経過を自分で明確に認識しておく必要がある。眠れないからつらいのか。社会人として寝不足で働けないからつらいのか。学校生活が嫌でたまらないからつらいのか。このあたり、自分としっかり向き合う必要がある。なぜなら自分の問題は最終的には自分がしっかり向き合ってあげることでしか解決できないからだ。

 

精神病の時代、もしくはメンタルの時代、大事になってくるのは、精神的・環境的ピンチは経験の積み上げにもなるし、そこから這い上がることだってきっとできるんだということ。これは何を隠そう俺自身に言っている。俺も、ピンチを糧に、強くとは言わないまでも、逞しくありたい。もう少しだけ、もうちょっとでいいから、自分の人生を投げやりに生きたくない。この気持ちを大事にしたい。

ある男の手記 8/21

音楽とは自由のことである、と俺は思った。だけどまたそれも、微妙に違うようだ。いや、違いは些細な程度ではすまされないだろう。

 

 確かに音楽は自由を「志向」する。自由でありたい、より自由であろうとする態度が、音楽を制作し、音楽を享受し、音楽そのものを目指す態度志向であるとおもう(俺はフッサールのこともよく弁えずにこう発言しているわけだが)。だが、自由は、飛び立つ一羽の蒼い鳥のようだ。捕まえた途端、どこか違う方向に飛び去って行く。なぜなら、そこにはもう自由がないと判断したからだ。

 音楽は、自由を志向するものであるに違いない。しかし、一度自由を手にしたと思った矢先、今度は不自由な方向に逸れていく。

俺はそれを、ジョージ・ガーシュウィンラプソディー・イン・ブルーを(レナード・バーンスタインの指揮と演奏で)聴きながら、感じた。むろん、ラプソディー・イン・ブルー自体は、とても自由で奔放な曲だ。バーンスタインそのもののような音楽だ(と、バーンスタインをそこまで聞きこんでいないにも関わらず俺は発言する)。それは次第に混迷するクラシックの歴史に、ある大きな一撃をもたらしたに違いない。しかし、ひとつ上の視点、音楽の歴史から(現在から事後的に)鑑みるならば、ガーシュウィンの音楽は、伝統的なクラシック音楽とその後のジャズ音楽の隆盛の分岐点となってしまったような存在でもあるのではないか。そして、ジャズもまた、21世紀になってふたたび埃を被った古典へと生成されてしまっているのではないか。

 かくして自由はいつの間にか(歴史の)必然と置き換わってしまう。なにもこんな大きな話をするためにガーシュウィンをもってきたわけではない。ラプソディー・イン・ブルーは、それを制作/演奏/聴取している時間の内にだけ、その自由性、圧倒的な自由性が享受される。しかし、音楽の歴史として張り付けられた知識=教養としてのそれには、不自由さしかない。自由は飛び立つ鳥のよう。

ならば、我々人間もまた自由と不自由を行き交う音楽のような存在者なのだろうか?

 

 

体重日記

 

 ある男の手記。その中には、時折、"体重日記"というものが並行して余白に書かれている。その日記の書き手は、手記の書き手(ある男)と同一視してよかろうとも思われるのだが、"体重日記"と並列して書かれた地の文章では、あくまで別の人物が書いた文章から引用しているということわりがしてあるのだ。それこそ、その"ある男"が、己の身体と健康に対する複雑な自意識を複雑化するためのからくりのように思われるがどうだろうか。

 ともかくも、このブログでも、手記内の"体重"日記を、不定期に紹介していくことにしよう。

 

体重日記 7/28

 

 身体が重くなる。重い身体の中で、私という人物はその存在感をインフレーションの波に乗せる。私は文字通り二倍になったようだ。体重の重みの中で、人は己の存在感のサイズを初めて認識するのだと思う。しかし、それは罪の意識にも変わる。私は私が嫌いだと思う。膨れ上がった自分は嫌だ。太ったということは、自意識をも過剰にするのだろうか? ともかく、過剰化された体重の目盛りの中で、私は太った私を再発見する。これこそ、人間の生というものではなかろうか。すなわち、自意識の目覚めと、罪の(意識)の始まり……。自分たちが欲望と悪徳の塊であると認識したアダムとエヴァのようなものであろうか。彼らはリンゴを食べて太ってしまったのだろうか、などと頓珍漢なことを考え始める。蛇はそそのかしたのだ。リンゴは自意識への目覚めであったのだと。

 過食症に近いのかもしれない。体内に放り込んだポテトチップスやインスタント・ラーメンは、取り入れるまでは私の外部であったのに、いつの間にやら私と同化して離れないものになっている。人間は、己の領域を常に一定に保つために外部を必要としている。捕食が前提とされているのだ。なんと自分勝手な存在だろうか。といいなながら、そう言う傍から、私は真っ紅な林檎をひとつ齧って、身をよじる。これほど美味しいものが世界に存在するのだろうか。太るということは、己の罪を自覚し、罪の意識自体を食すことだ。過食は悪徳に対する悦楽である。

 

 

ある男の手記 23/7/16 大学の条件

 

 日本の四年生大学に入学したら、最短でも200万は払うわけだ。大学で何をするかといったら、基本的には授業を受けて、必要とされる単位を揃えることである。サークル・部活動、生活費を賄うためのアルバイト、友人関係に色恋と様々であるが、基本的に学業が中心であることに変わりはない。私は高校生までそれなりの、凡庸な優等生だったはずなのに、ある時期に受けた試験のすべての単位を落としていらい、私の底意地の悪い、高く括った鼻が、まるでゴーゴリの小説のように、落とし物となり、ただの肉塊となったのである。もっと本業の法律学に真剣に向き合うべきだった。

 

 とはいえ、とにかく四年間で200万。大学の教師陣の講義や、大学図書館の利用その他諸々の生徒へのサーヴィスは、それに見合うだけの価値があるという商業的観測でもある。しかし実際、その"商業的"観点からいって、大学というものの価値は、政治的エリートや経済的インフルエンサーその他諸々のSomebodyを輩出するという側面の方が強い。何を学んだかというより、その大学からどんな"就職先"へと繋がったか、である。たしかに大学には就職相談センターというものもあるし、学生は四年で学んだこと・活動したことを、あくせく就職活動の成就にうまく繋げなければならない。

 

 なんと、性急な、あまりに性急な大学生たち!四年間のラスト・モラトリアムが与えられ、あとは自立して生きていかなければならない。「自立」・「自律」が最優先である。たとえば「主体的に生きる」とかの項目はその優先リストには入っていない。

 

 大学の価値は、大学に行った人それぞれが抱く主観的なものであろう。200万というのは単なる数字か、あるいは大学に入って卒業するための基本的な条件のひとつにすぎない。しかし、大学に行ったか、行ってないか、なんてことは本来はどうでもいいはずだ。なのに人々は「〇〇企業には〇〇大学の採用枠があって~」なんてことをまことしやかに話す(実際、それは本当であるケースが多いだろうが)。大学名が一人歩きする。所詮、世の中やテレビの世界はそんなものだ。どの大学に入ったか、どの大学を出たか。違う。大学に入ったのなら、その四年間で何をやったかだ。

 

 私は学業を疎かにもしたし、サークル活動でさえ中々うまくいかなかったし、アルバイトも長続きしたところはひとつだけであり、現在では連絡を取り合っている同級生もほとんど居ない(公職や大企業を目指していた人々は今、つつがなく上品なエリートとして暮らしているんだろうか)。

 

 私は若かったのではない。あまりに幼かったのだ。大学生になっても、人間の肝心の魂が幼稚ときては、色々とつまらない情けない些事の目まぐるしい連続に、人生の多くを譲り渡してしまうわけだ。人生とはなにをどうやってもけっこうつまらないな、うまくいかないから面白くないなとも思う。

 

承認欲求の上昇志向

 

 自分の過去(半年以上前)のtweetを見ながら、承認欲求のえげつなさをひしひしと感じ、驚き慌てめくほど。承認欲求はとどまることを知らない。いいねの数が30あたりで安定してくると、それより下回るものをどこか気にしてしまう。くよくよする。昔は10でも嬉しかったのに。

 

いや、1でも嬉しかったのだ。誰か一人がわざわざタップしたのだ。すきの一文字を。

 

欲望は止まることを知らぬ。今度は40がほしくなってきた。とまらない。いつまで経っても、「完璧」がやってこないのだ。いつまでたっても事が実現しないカフカの「皇帝の使者」のように。

これはどう考えても意味の少ない過程なのだ。

 

 

経済=力について 覚書き

 

経済力とは人口に膾炙した物言いだが、要するにability、能力のことだろう。生活資金を稼ぐ人としての(求められる)能力。あるいはその力能、適正。

Power of Economyという意味での"経済力"があってもいいのではないだろうかなどと思う(まァ普通にあるんだろうな)。つまり、POWER=力、とくに権力としてのpowerである。

権力としての経済。これもたしかに凡庸な物言いである。経済が、お金がいろんなものやコトを決定するようになって、支配するようになって久しい。

思うのは、経済がただひとつの特「権」的な、いや「権威」として、政治やお茶の間の世間やメディア社会や芸術や科学分野他すべての領域を支配しようとする、多大な影響力を与えるこの社会構造も、何年もかけて作り上げてきた強固なシステムなのだろうと思う。アルチュセールなんかを読むと特にそう思う(読み切ったことないけど)。

 そういうことは柄谷行人を読んできて学んだ。今の超資本主義時代は、なるべくしてそうなったのだと。

 

 そういえば、ニクラス・ルーマン社会学は、経済というカテゴリ(ジャンル)を特別視せず、政治、経済、法、科学、芸術、そして全体としての社会、それから宗教、全ての社会構造としての理論を各論的にも、それから総論的にも打ち立てた巨人である。彼の著作はとても難しい。しかし、その統一した視座の巨大さには驚き呆れ果てるほどである。ルーマンが、現代社会を診断したら、どのように言うであろうか。ルーマンも久しぶりに読んでみたい。今僕はドゥルケームの『自殺論』を再読して社会学のなんたるかを久しぶりに味わいたいと考えている。

トラウマ履歴をくだってゆけ——大失敗の記録

■トラウマ履歴をくだってゆけ——大失敗の記録

 

 僕のトラウマ形成に関わった大きな出来事のひとつは、大学に入ってから入部した「ロックンロール部」である(もちろん仮名)。これを「大失敗」の経験と呼びたい。ロックンロール部でのすべての出来事は、この「大失敗」そのものだったのだと、今では思えないこともない。

 「トラウマ履歴をくだってゆけ」と題したけど、ようするに自分の暗黒時代()を静かに見つめることで、いくらかでも自分の心のリハビリテーションになるなら、という意味合いだ。トラウマ形成のとるにたらない回想。それを始める前に、いくつか片づけなくてはならないような疑問がすぐに浮かんでくる。これらは結局後回しにして語っていくほかないのだが、とりあえず二つの問題がある。そこまで面倒ではないと思われる最初の方のトピックとして、以下を問いとして立てよう。

『僕の"真っ黒な日々"とでもいうものが2015-19の健忘的な記憶障害に関わっているとすれば(前回記事:心のリハビリテーション - 書も積りし第二期)、この真っ黒な日々を過ごしてきた侘しい心性と、安易に思い出したくないがために蓋を閉めて忘れ去ってしまいたいとでもいうようなこの「逃避」の心理は、いかに形成されたか???』 

大半が二十代のうちだ。(1)ロックンロール部での失敗は、本当に外傷的な個人の体験だった。(2)それからしばらくして、高校の友達をほとんど失ったわけだが、そのことは今でもつらい。(3)そして、もうひとつ、僕が大学を留年してから後に大きな失敗をしたことがある。

 18,19の頃は精神的には「まだ」うつ病にとどまっていた、現在のような双極も不安症もない、まだ十代特有の謎の溌剌さがある青年mistyは、授業の合間、ロックンロール部で練習に励んだり単に談笑したりしていた。

 一年生の秋だったか、冬だったか。一つ目の失敗をしたな、と思った。年齢がひとつ上の女性の先輩に、ねちっこい陰険な批判をされたのだ。当の問題の詳細は省くが、僕の言い分としては、サークルのとある暗黙の慣行となっていた事態を、そうとは知らず、「これってルール違反にならないんですか?」と、部誌ノートに率直に書いてしまったのだ。暗黙のルールとして存在するなら、どこかに明記する方が誰にとっても分かりやすいと思ったからだ。僕の落ち度としては、たまたまそのこと(暗黙の慣行はみな共有して知ってしかるべきである)を知らなかったこと、あと、不用意に、何人かの神経を逆なでするような書き方をしてしまったのかもしれない。いずれにせよ、僕を批判(というかその後、無視を続けるとか、話しかけてもぶっきらぼうな返事しかしないとか、陰険とした態度)した一つ上の学年の「めろん先輩」は、突き放すような血の気の多い文章で、赤字でこう部誌に書きつけていた。「ふざけんな!下級生が指摘してんじゃねえよ!」。激しい怒りがすぐさま読み取れるような口調の文だったことは憶えている。部誌のそうしたやり取りを目にした他のサークル部員がこれは穏やかなことではないな、という事態にいたって、僕は他の先輩から呼び出された記憶がある(どの先輩に呼び出されたかの記憶は曖昧である)。

めろん先輩、死ねばいいのにな、今頃死んでいないかな、とんでもない不幸な目にあってこの世からいなくなってくれたらなぁ、と今でも正直思うことがたまにある。僕はほんとに冷酷だから。今でもめろん先輩のかけていた鋭利な黒縁のメガネのフレームを思い出すだけで頭が緊張してくる。あの時、僕はすぐに教訓を得て次の行動に繋げていくことを考えなかった。反省に失敗したのだ。やらかした後、学び直すのが何よりも重要なのだ。しかし、とにかくちゃらんぽらんに生きていた僕は、その「めろん事件」――あるいは部誌事件でもよい——が終息に(というかうやむやに)近づいても、このサークルなんかイヤだな、めろん先輩とはもう二度と口聞きたくないな、などということを思っているばかりでなにも今後の対策をしなかったのである。精神年齢8歳か?

 もうひとつ、同じ時期に失敗をしてしまったことがある。この失敗の方が決定的で、僕はこの時点でロックンロール部を辞めてしまうべきだったとも思う。他にも軽音サークルはたくさんあったし、実際僕はロックンロール部でどんどん浮いた存在になるので、他のサークルの先輩や同級生たちとの交流の方に楽しさを求めていったから。

 当時僕はロックンロール部のホームページ係をやっていた。ホームページといってもとても簡素なもので、どうやらそれまでのロックンロール部はインターネット関係にそこまで詳しくなかったみたいだ。僕も趣味で個人サイトをやっていたぐらいのお粗末な持ち技しか有していなかったが、必要最低限の情報や更新はやっていた(と思う)。あるとき、大切な情報の不備(新入生との初めての飲み会の金額や場所などのお知らせ)があって、間違った情報がホームページを通して伝わってしまったので、先輩たちは顔を顰めた。僕はそのことをあとになって(周囲の同級生に)知らされた。

 呼び出しがかかった。すでに同級生でその時の部長(ロックンロール部では二年生が代々幹部として役職を持つことになっていた)の「紅さん」と、腕の立つ華麗なドラマーの「納品先輩」だった。彼らはつとめてマイルドに僕の過ちを指摘し、和やかなムードをぎこちなく保ちながら、僕が今後やるべきことなどを口にしていった。部誌事件のことも語られた。紅さんは部長、僕はたかだかホームページ係、互いに同級生でありながら注意を受ける、という情けない僕の姿は、彼らの目にはどのように映ったのだろう。

 なぜ、その時やめなかったんだろう。ロックンロール部なんて、ダサい名前。いかにも九州っぽく、絶対的な上下関係があり、男性は、女性には優しく下級生の男性にはキビしい。

 九州男児という言葉が苦手だった。しかし、Q大学とあれば、四方八方から、というより、九州のねちっこく情に篤くて秩序を守ろうとする、日本独自の保守的—人情的な空気があちこちに蔓延しているのだ。時代が、人が、は関係ない。九州の人同士が集まると、空気は自然とそうなってくる。僕はそのことを何度も目の当たりにした。ここはあくまで伝統的な九州の土地の、いい意味でも悪い意味でも伝統的な大学なのだ、と。

 とにかくその時パッと辞めるべきだった。ロック音楽なんて他でどこでもやれる。しかし、僕は賢くない、極めて馬鹿であってどうしようもなく低いレベルの人間力しか持ち合わせていなかったから、みなから「あいつ、ちょっともめ事多いよな」という雰囲気のなか、ズルズルと留年する年までロックンロール部に在籍し続けた(もちろん部費はちゃんと払い続けたものの……)。

 

 書いていて、心の涙が出てくる。僕はどれだけ嫌われ者だったのだろう。それも実に半端な、うっすらとした嫌悪感なのだ。mistyはどことなくとっつきにくい人だ、という空気が幹部の人たちや、「権力」を持つ上の先輩方を通してできつつあったのだろうか。彼らにしてもそんな意識的な態度ではなかっただろう。全てはあくまでも自然発生的に。自然発生的に、僕はだんだん落ちこぼれになっていった。そうなりながら、自分の理想とする音楽を作り実演するためだけに、ロックンロール部に居座り続けた。

 

三年生になった。僕は三年の春にメンタルを大きく悪くすることになる。