マルクス主義と『芽むしり仔撃ち』

先日、複数人でTwitterキャス上で大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』の読書会をやったことで、かの作品に対する愛着のようなものがさらに増したのだが、それにつけて思うことがあるのでブログに書いてみる。

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

芽むしり仔撃ち (新潮文庫)

 

 

最近はマルクスの『資本論(一)』をはじめ、マルクス主義関連の本を読んでいたこともあって、どうにもこのマルクス主義的な経済学批判と『芽むしり仔撃ち』を結び付けて考えたくなったのだ。限界はあるが、少しばかりやってみよう。

 

 マルクス主義、たとえばマルクスエンゲルスが共同で発表した『共産党宣言』などが顕著であるが、『宣言』いわく「すべての歴史は階級闘争の歴史である」。これは、要するに、資本家と労働者や、王と人民、地主と小作人、厳格な父と弱き子のように、あらゆる人的関係は支配ー抑圧関係にあると言っているのである。そこから抑圧側の労働者階級(プロレタリアート)の革命論の話になるのだが、まさに『芽むしり仔撃ち』で扱われている「僕」をはじめとする主人公たちも、感化院に居座る教官らを代表とする「大人」たちから抑圧されている。もちろん、教官や村の村長も、戦争(「人殺しの時代」)にあっては、もっと大きい社会や国家から抑圧されているのである。支配―抑圧の関係を、特に抑圧される側の恥辱の感情を、大江は実に巧みに描いている。

 

 村の人間たちが「逃亡」したことにより、「僕」たちは一瞬の革命を夢見る。

その前に注記したいことは、村では「生産」活動が頻繁に見られるという事だ。マルクスは、社会をただひとつの「生産様式」という視軸から見るという発明をなしたのだが、「僕」たちは村での生産活動、すなわち畑を耕したり作物の収穫の手伝いをすることで、村に受け入れられようとする。ここでは、生産活動を行うことで「村人」たる資格=生存を維持していくための条件をクリアすることになるのである。

 

 しかし、村人たちが逃亡したことにより、「僕」たちは徹底して反=生産の領域に入る。暴力による動物殺し、愛への逃亡など、「反=生産」の活動はきわめて自由だ。象徴的なのは、小説でも巧みに描かれている「祭り」である。バタイユは、ある未開地域における人々の消費活動の徹底、消費活動の極限、ひいては反=消費、反=生産活動を「蕩尽」「消尽」と呼び、それらが通常の経済学の範疇にはない「一般経済学」の円環をなしていると論じた。それはまさにバタイユの経済学批判でもあるのだが、「僕」や南、弟、少女らは、この「蕩尽」にも近い反=生産活動たる「祭り」を行うことで、自由な王国を象徴づけようとした。

 

 しかし、そんな自由の時間もつかの間、逃亡したかに思えた村人たちはあっさりと帰ってきて、兵士や「僕」らを相変わらず「抑圧」する。そのとき、村長をはじめとする「大人」たちが切り札として出すのは、きちんと家庭の味がする「美味しい食べ物」である。もちろん、この美味しい食べ物とは(通常の経済学的な意味での)生産された産物であり、ふたたび「僕」たちは生産活動=社会の奴隷の地位に甘んじることを誘惑づけられる。僕はそれを「拒否」する。拒否するのだが、反=生産活動の領域はすでに撤退しており、弟は行方不明になり、「僕」にはどうしようもない。

 

 しかし、筆者はこの作品を通じて、大江は反生産、ひいてはアンチ・経済学への糸口をかすかながら提示していると考えた。それは間違いなくあのつかの間保証された自由の王国であり、反=生産活動であり、あのときに人間は生産=生存の維持の条件を離れて、真の自由人となったのだ。死んでしまった少女との愛は真の自由(それはつかの間の者でしかないにもかかわらず)によって実現されたのである。