Radiohead論、あるいは《事件》論

 

 Radioheadの転換点であり大作である2000年リリースの「KID A」と、KID Aのリリースから8か月後に発表された5枚目の「Amnesiac」(以下、アムニージアック)の関係性を、フロントマンであるトム・ヨークは次のように述べていたことを思い出す。いわく、KID Aはある事象を外から眺めている。それに対してアムニージアックはより内側の視点に立って事象を描いているのだ、と。

 

Kid A?[国内盤 / 解説・日本語歌詞付] (XLCDJP782)

Kid A?[国内盤 / 解説・日本語歌詞付] (XLCDJP782)

 
Amnesiac[輸入盤2LP](XLLP783B) [12 inch Analog]

Amnesiac[輸入盤2LP](XLLP783B) [12 inch Analog]

 

 

 

 Radioheadの説明はあくまでイメージの問題であり、それを哲学的に論理的に証明しようとする類ではなかろう。しかし、この姉妹作品である2つの作品を通して事象の外/内という比喩を使ったのは重要である。僕はその「ある事象」のことを《事件》と呼びたい。英語で言うaccident、《出来事》の意味も併せ持つ《事件》である。

 

 Radioheadの2つの作品は、この《事件》の外と内側の視点を使って描いたようなものだ、と述べられている。「外」の視点である「KID A」は、より冷たいサウンドで、機械的サウンドでもあり、誤解を恐れずに言えば「距離を取った」ような音楽性の強いアルバムだともいえる。これに対し、アムニージアックは、Knives OutやI Might Be Wrongのような曲からも分かる通り、「火」の熱を秘めたような激しいバンドサウンドが回帰しており、アートワークにしてもキャラクターたちが火事のなかにおいて悲鳴をあげているかのようなものになっている。この《事件》とは何だろうか。

 

 《事件》とは、私たち個人や、もしくは社会に向かって、強く打撃をあたえるトラウマ的な事象である。そして、この《事件》は、Radioheadの2つのアルバムにおけるように、外側と内側の両方から描かれることによってのみ、その狭間に立ち現れるものなのだ。

 

 日本の批評家の柄谷行人は、『意味という病』の「夢について」という論文で、夢(の狂気、狂気的な夢)の外側と内側の議論をしている。たとえば、分裂症者(現代の言葉でいえば、統合失調者になるのだが、僕はある観点において統合失調という言葉をこの類の評論文で使うのを忌避している)の外側と内側の話にスライドさせたりもしている。分裂症者のリアルな現実認識は、外側の視点に立ってみれば、非常に奇妙なものとうつるだろう。それこそ悪魔的なのかもしれない。しかし、ある意味《狂気》=《事件》を内側から生きている分裂症者は、自分の認識を悪魔的なものとしては見ていない。内側には内側の視点がある。わたしたちは、この外側の視点と内側の視点を交差させることによってのみ《事件》や《狂気》のより正確な姿にたどりつくのである。

 

柄谷的な意味での《狂気》=《事件》については、KID Aの中での象徴的なナンバーは「Idioteque」であり、アムニージアックのそれは3曲目の「Pulk/Pull Revolving Doors」である。イデオテックは、現代社会の問題点を、それこそ外側から後発したり、揶揄したり、それを攻撃的で独特のリズミカルな曲調でラッピングしている(携帯電話がリンリン、携帯電話がリンリン……)。パルク・プル・リヴォリヴィング・ドアーズはまさにトム・ヨークの頭の中の音(そういう意味では、後のトム・ヨークのソロ活動の原動的な曲と言えるかもしれない)のような複雑で沈鬱な内容になっている。実際、この曲だけ聞くと非常に頭が狂ってきそうになる(苦笑)。しかし、それだけ内省的な歌がアムニージアックの曲たちなのだ。

 

《事件》は、別に90年代の湾岸戦争や、2001年の9.11事件、さらには2011年の3.11震災でもよい。個人的な体験でも良い。その深みを認識し、作品において描写すること。Radioheadは何より事象への接近という意味で、きわめてリアリズムを追求した音楽集団だったのだ。そのことは、アムニージアック以降の作品からも少し伺える。

 

Hail To the Thief?[国内盤 / 解説・歌詞対訳付] (XLCDJP785)

Hail To the Thief?[国内盤 / 解説・歌詞対訳付] (XLCDJP785)

 

 

 たとえば、6枚目の「Hail To The Thief」の代表曲は「There, There」だ。ゼア、ゼアは序盤のタムを駆使した独特のリズムサウンドを後半にかけて徐々に強度を上げながら、一気に爆発する。そこで、「We are accidents, ...」という印象的な歌詞が飛び出すのだ。もはや、《事件》はある事象ではなく、むしろ私たちなのである。私たちが理念的な概念である《人間》であるのではなく、《事象》、つまり、色んな物事や想念や資本や消費行為がバラバラに通過する、事物としての《事象》であると言いかえてもいい。ここでは人間は主体性を大きく剥奪される云々という話にもつながっていくが、そこは本稿とは関係ないので省いておく。

 

ヘイル・トゥー・ザ・シーフは(その中のゼア、ゼアは)、私たちこそが《事件》なのだと述べた。《人間》は《近代的人間》でも《生活者》としての人間というより、《事件》=《出来事》なのだと。この6枚目のアルバムは実に多様な曲から構成されているが、そのどれもが美しく、刺激的で、そして権力や体制といったものに対して絶妙に怒りや哀しみを向けている。Radioheadの主題は、6枚目まで続いていたと一応は言えるだろう。しかし、そのきっかけを作ったのは、むしろ3枚目の「OK Computer」であったのである。

 

 

「OK Computer」のアルバムジャケットは、「都市」のイメージの象徴でもある立体道路の交差のような画像を背景にして、人物やキャラクターたちをコラージュしている。私たちはここに、「事象」=事物(普通車や荷物運送などの車)が通過するものとしてのそれ、を見出してもよかろう。OK Computerの無機質で実に都会的な冷たさを一貫して感じさせるこの傑作は、そうした色んなヒトや色んなモノが通過していく現代的な都市を実に批判的に、冷たく描いているといってもいいだろう。OK ComputerにはParanoid Andoroid(パラノイド・アンドロイド)のような実に攻撃的で批判的=世界冷笑的な大作もあれば、No Surprises(ノー・サプライゼス)のような哀しみに満ちた優しい作品もある。しかしここでは、「Karma Police」(カーマ・ポリス)一つをあげておけば十分であろう。 カーマ・ポリスをシングルとして発表したとき、権力や体制に批判的でありつつも、事物や人間を《事件》として捉え、それを極めてリアリスティックに描きつづけていこうとした《事件》の音楽家が、ここにはいるのである。

 

(本当はMVを貼りたかったのだがなぜか不具合で見つからない。仕方ないのでLIveバージョンで)


Radiohead - Karma Police LIVE (Lollapalooza 25 Years)