体重日記

 

 ある男の手記。その中には、時折、"体重日記"というものが並行して余白に書かれている。その日記の書き手は、手記の書き手(ある男)と同一視してよかろうとも思われるのだが、"体重日記"と並列して書かれた地の文章では、あくまで別の人物が書いた文章から引用しているということわりがしてあるのだ。それこそ、その"ある男"が、己の身体と健康に対する複雑な自意識を複雑化するためのからくりのように思われるがどうだろうか。

 ともかくも、このブログでも、手記内の"体重"日記を、不定期に紹介していくことにしよう。

 

体重日記 7/28

 

 身体が重くなる。重い身体の中で、私という人物はその存在感をインフレーションの波に乗せる。私は文字通り二倍になったようだ。体重の重みの中で、人は己の存在感のサイズを初めて認識するのだと思う。しかし、それは罪の意識にも変わる。私は私が嫌いだと思う。膨れ上がった自分は嫌だ。太ったということは、自意識をも過剰にするのだろうか? ともかく、過剰化された体重の目盛りの中で、私は太った私を再発見する。これこそ、人間の生というものではなかろうか。すなわち、自意識の目覚めと、罪の(意識)の始まり……。自分たちが欲望と悪徳の塊であると認識したアダムとエヴァのようなものであろうか。彼らはリンゴを食べて太ってしまったのだろうか、などと頓珍漢なことを考え始める。蛇はそそのかしたのだ。リンゴは自意識への目覚めであったのだと。

 過食症に近いのかもしれない。体内に放り込んだポテトチップスやインスタント・ラーメンは、取り入れるまでは私の外部であったのに、いつの間にやら私と同化して離れないものになっている。人間は、己の領域を常に一定に保つために外部を必要としている。捕食が前提とされているのだ。なんと自分勝手な存在だろうか。といいなながら、そう言う傍から、私は真っ紅な林檎をひとつ齧って、身をよじる。これほど美味しいものが世界に存在するのだろうか。太るということは、己の罪を自覚し、罪の意識自体を食すことだ。過食は悪徳に対する悦楽である。