ダス・マンの宇宙1(小説)

前回の記事であげた創作文章の続きは、全然書けていません。書いてはいるけどまだ掲載できるような状態では全然ないので、その前に前から温めていたネタで中篇小説の予定のものをかきはじめたので、載せます。

 

文章がちょっとくどいですが、なるべく長すぎないように載せていきたいと思います。

 

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ダス・マンの宇宙 (1)

 

 ……男が目を覚ますと、彼の意識にまず飛びかかってきたのは自分が何か固い床の上に横たわっていて、背中とおもむろに接触しているゴツゴツした不快な物体との感触の眩暈だった。人は普通柔らかかいものの上に眠りをささげるものだ。男の背中で感じられたものは不快な固さと驚くほどの残酷な冷たさだった。もちろんそれらはそのまま激しく硬度で冷却されているというほどではなく、ただのフローリングか何かのタイルが剥き出しにされた形での床に過ぎなかったのだが、目覚めたばかりの男はすぐに「世界が自分に対して不快である」、若しくは「自分は不快という概念を世界に対して抱いている」という自分自身の意識に気が付いた。それは文字通り不快なことであった。不快な固さ、不快な冷たさ。世界は自分を拒んでいると思った、あるいは目覚めたばかりの自分が新しい世界を拒んでいるのか。そうしたことを一瞬のうちに想起している内に、自分は「いつもとは異なった」状況に置かれていることにうっすら気付きはじめた。というのは、いつもはこんな不快な床の上で寝っ転がったりするわけはないからだ。自分の確立されたテリトリーであるところの「自分の部屋」に彼はいつも安住していて、夜遅く帰ってくる時でさえ大層お気に入りのふかふかのベッドに自分をやすらわせているのであるから。つまり、ここはいつもとは違う場所、違う空間であるかもしれないという事だった。そうしてそれはそのまま彼を取り巻く「現在」の状況だった。男は目覚めた。上半身をゆっくりと起こした。その前に気付くことがあった。彼がしばしの間タイルの床に寝そべっていた間、彼の眼はやはり見知らぬ天井を捉えていた。それは真っ白のタイルであった。不思議なほどに白い色の天井は、碁盤の目状にびっしりと引かれた線と絡み合っていた。それはなんとなく彼に監獄の景色を思わせた。白んでいる天井はどこまでも広がっていた。男はそれを気味悪く思った。それに、床も天井と同じようなタイル張りで出来ていた。それはどこまでも男を拒絶しているようなしらじらしさを備えていた。男はあたりを見廻した。壁までが同じ造りだった。おまけに壁はピカピカに磨かれているような風があり、光沢さえ見られるのだった。どこを見ても、白、白、白。男は文字通りの眩暈に襲われた。男はそのようなスタート地点を与えられた。そこは形象《宇宙クウカン》の「空間」である。彼は形象《宇宙クウカン》の内部において誕生したに過ぎない。内部から与えられた世界において、全—世界を把握することはできない、それは人間には不可能だ。全能な神に比べれば人間とは欠陥を抱える神であるから。もちろん、《白井サエン》もその一人であった。この、白井サエンと呼ばれることになる人物は、実に奇妙な環境を与えられていた。まず、その人物は自分で自分の名前をつける必要があるだろう。言うなれば、母マリアは隠されているのである。イエスと名付けてくれる聖母マリアは存在しない。いや、彼に肉体上の親族はいたはずなのだが……。ここで白井サエンの過去について触れておこう。白井サエンはもちろん違う名前を現実世界で有していた。しかし、それがどういった名前であるのかはここではどうでもいい。それは紙面上の文字よりも軽く、つむじ風にあっという間に吹き飛ばされるような存在である。言うなれば、前—白井サエンは、しごく一般的な学生生活を送っていた男子高校生であった。彼は、人生のレールを着実に進んでいる途上であった……彼にはあたたかい肉体上の親が存在し、それから五つ違いの妹が一人居た。妹は彼には似ていなかったが、彼はことのほかこの些か年離れた妹を溺愛した。それから、前白井サエンにはガールフレンドと呼ばれる人種がいた。高校生活で初めてできた、可愛らしい女子であった。彼はよく彼のガールフレンドと、人生の怠惰について議論を交わしていた。なぜ、われわれは生きなければならないか。なぜ、生きることは刑苦か。刑苦に、どんな意味があるか。こういうことを、高校生がもてるだけの余裕と思考回転を使って考えた。そのガールフレンドは時にカトリック的な発想を前白井サエンに伝え、前白井サエンはそのことにいちいちびっくりした。名前はなんだったか。M、丸井クリステヴァ(仮の名前、初めてのガールフレンドにして進行形)のあどけなく可愛らしい顔から零れる言葉の重力について前白井サエンは思いを巡らせたものだ。そしてそれは確実に彼の血肉となった。……或いはこういう事柄が、前白井サエンと白井サエンを分岐させたのだろうか? いずれにせよ、前白井サエンの人生の仮手記はここで止まっているようなもので、全ては過去形である。そこには一つの憐れみも逡巡もない。前白井サエンにおいてはあらゆる事柄が過去の出来事である……そしてそれは実に幸福なことでもある。全てが宝物のように感知可能な記憶の乗り物と化すからだ。私はそれを記憶の宮殿と恥ずかしげもなく呼称したいと思う。これから白井サエンはしばしば自己が作り上げた些末な記憶の宮殿に憑りつかれるだろう。そう、一つの形象《宇宙クウカン》は実に監獄でもある。監獄と過去の回想は分かちがたく結びついている。人々は自らの過去によって罰されるのだ。自動的自罰化装置。そんなものを近代は産み出したのだろうか。

 それから男は自分のことについて考えをめぐらせた……考えたのだが、何も出てこないことに男は狼狽えるしかなかった。自分? 僕は誰だろう。僕は部屋の中で……部屋の中にいたはずだ。そう、自分の部屋。カーペットで敷き詰められた床の上に大人一人が寝そべっても十分にスペースのある水色の木製ベッドがあって、自分のお気に入りのWindows8が搭載されたノートパソコンが充電されていて、部屋には机が一つと本棚が二つ、部屋着や制服を容れたタンス、……それから誰かのポスターが壁に何枚か。何のポスターまでかは男は把握できなかった。なんだっけ? ひどく記憶が朧気だ。音楽アーティストのジャッケット写真のような気もするし、それこそ同時代に活躍している女性アイドルの宣伝ポスターかもしれない。何にせよ確信がもてない。僕の部屋はそのようにして割合簡素なものだったはずだ。机の上には灰色の蛍光灯があり、部屋の電気は大きなLED電球が配備された柔らかな光で、部屋の埃さえちらちらと舞っている。本棚には、世界文学全集シリーズのトルストイの『アンナ・カレーニナ』やジャック・デリダの表紙が橙色の入門書が目立つ場所にある。だいぶ意識は明瞭になってきた。僕はそのような場所にいたはずだ、今まで。なんだかスタート地点を間違えた気がする。僕はいつもその部屋に戻って、水色のベッドにかけられた布団にもぐりこんで、部屋の電気のスイッチを切って一日を終える。するとまた新しい一日が太陽の訪れとともに用意されるわけだ。実に怠惰で、実にルーティンな毎日。そんなフツウノマイニチを僕は過ごしていたはずだ。さしずめ僕は学生だったはずなのだ。僕はどこかに監禁されたのだろうか? 何者かによって? ここはどこだろう、監禁されているとして、監禁者はどこにいるのだろう? 何か監視カメラのようなものが? そう思って男は冷静に、もう一度辺りを見廻してみた。ぐるっと回りさえした。しかし、死角に監視カメラのようなものは見当たらない。もっと辺りを探るべきか……これは悪夢なのか? 何故僕の記憶は曖昧なのか? 頭を打ったとも考えられる。男は自分の後頭部に手を当てた。しかし、特に外傷を受けているというわけでもなかった。男はそこで初めて自分の身に着けているものに意識をやった。男は灰色の生地のパーカーに紺色のデニムジーンズを履いていた。アクセサリーなどの装飾は何もない。コンバースの白いシューズを履いて、その靴は黒の少し長い紐できっちりと結ばれていた。靴を履いている? そこからは水色の靴下がのぞいていた。灰色のパーカーは男が普段着としてよく着用しているものだった。デザインとしてロダンの作製した石像を連想させる悩ましいポーズをしたラフな人物のスケッチが真ん中にあり、その上には「Das Man」と書かれてある。ダス・マンか、と男は思う。意味は分からない。ただ、ドイツ語で有名な言葉であるというのを彼は思い出していた。衣服はいずれも清潔だった。不思議なほどにそれらは皺がなく、さっぱりとしていた。それから男は一つのことに思い至った……「昨日」の記憶が無いのだ。それは私たちから見れば仕方がないことなのかもしれない。後で明らかになることだが、白井サエンからは予め直近の一か月分の記憶が剥奪されているからだ。それは何故か? スタート地点を純白なものとさせるため、である。白井サエンは確かに現実世界で生活をしていた。前白井サエンとしての生活。何のために記憶が剥奪されたのか? それはひとえに暴力によるものである。白井サエンは前世——としておこう——において彼の確かな人生のレールの上を走っていた。それは確かに人生の最高の軌道とでも呼べるようなものだった。彼には未来があったのだ。だから私たちは彼からほんのちょっとの過去、「昨日」や「一昨日」を拝借したわけなのだ。昨日、それは何と美しいものだろう! 人ひとりぶんの昨日は、世界を分割したものである。つまり、それで世界が完成するわけではないが、世界の構成成分が原型と等しい割合のまますっぽりと収まっている。かといって、その日が一般的か個別的かは判別できない。白井サエンから剥奪された「昨日」は確かに何も変わり映えのしない一日だったかもしれないし、世界の終わりだったかもしれない。私はニーチェ永遠回帰の思想を思い出す……度々、空白の「昨日」の残像が白井サエンを苦しめるであろう。「昨日」に何があったか? 健忘症では解答することができないそれらの問い。何があったか? 何があるべきか? 未来を手にした青年は、過去の一部を剥奪されたのである……。白井サエンはとにかく昨日という昨日のことが思い出せないのに苛立った。一番遠い記憶……思い出したと気付いた時には、それは恥ずかしいものであった。学校へ登校する前白井サエンとガールフレンド丸井。白井サエンと丸井クリステヴァは学生が密集する大通りを逸れて人寂しい脇道に入った。そこで人目が(というか同じ学校の生徒が)無いのを確認すると、白井サエンと丸井クリステヴァは秘かに手を繋ぎ合った。「ねぇ……」「なんだい……」「あれは完成したの……終わったの?」「……ごめん、そうだね、言ってなかったね……勿論書き終わったよ……完成したんだ。僕が初めて書いたことになる小説、君に読んでほしい小説だ……!」(白井サエンはここで恥ずかしさのあまり右太ももをつねった! 身がよじれるほどそれは痛々しい思い出だった……)「ほんとう……! ついに書けたのね、すごいね、しかも私の為に……私の事を思って書いてくれたの?」「勿論……勿論。ずいぶん苦労したけどね。自分の小説なんて……本当は破いてしまいたいくらいだ! でも完成したからには君に読んでほしいと思って……」「まぁ……それはいけない……是非! 今すぐにでも読みたい……!」そこで前白井サエンはもったいぶって肩からぶらさげていた学生鞄をさぐって、分厚くなったクリアファイルを取り出した。「ほら、これさ……原稿用紙で五十枚くらいかな……四十八枚だ……タイトルは……」「『長いコール』ね……! コールというのは、これは電話のこと?」前白井サエンは少しはにかんだ。「そうだよ……通話をかける時の音さ……もっとも、まずは読んでみてほしい! 無用な説明はしたくない。本気で書いたんだよ? ……ぜひ、お願いする……」「今すぐ読むわ……ちょっとばかり公園に立ち寄りましょう! 歩きながらでも読みたいくらい……」 これは脚色化された、我慢のならない会話であろうか? 僕の記憶が? 作り替えた? どうにも分からない……しかし、白井サエンが思い出したのは、《前世》の世界においてガールフレンドである丸井クリステヴァ(仮名)のぽってりとした唇と、柔らかな微笑と、透き通るような肌の白さを彼に共有してくれたことだった……暑い夏。そうだ、夏だったはずだ、季節は。白井サエンは思い出した。蝉がけたたましく鳴いていた。「長いコール」と名付けられた確かに僕が書いた小説を丸井クリステヴァに手渡してから、僕たちは街にある小さな公園に立ち寄った気がする。そこで本格的に丸井クリステヴァは五十枚弱の素人の小説に取り掛かるのだった……それから何があったっけ? ひどく記憶が混濁している。現在の白井サエンはうっすらと冷や汗をかきはじめた。相変わらず男の周りには白いタイルばかりが不愛想なる絶対的なあかんべーを彼に対して示している。この状況を僕にどうしろと言うのだろう。「昨日」の記憶もない、何も思い出せない……白井サエンは試しにジーンズの両方のポケットをまさぐってみた。左脚のポケットの方に何か紙屑のようなものがあった。それはどうやらチュッパチャプスの包み紙のようであった。僕はチュッパチャプスを舐めていたのか? 包み紙は空色だった。文字が読める、「ハワイアン味」と書かれてあった。自分が身に着けているもので他に手掛かりになりそうなものはこれくらいだった。あとには何も無かった。チュッパチャップスの包み紙から何かの記憶を手繰り寄せるのはかなり難しい。白井サエンはそれをやろうとしたが、どうしても「昨日」の記憶が蘇ってこないのだった。「昨日」は何処にいったのだろう?

 

(2)に続く(予定です、がんばります)