合法ハーブを求めて(創作)

Day 0

 

僕は何かを書きたい、いやそもそも書くためにボールペンを取ったのだがすぐに健忘症的忘却的失念的無念が顔を覗かせる。そもそも僕はイマココを軸とする前後の記憶を持っていないのかもしれない。それらの記憶の非ーインストール。(ヒインストールという布製のものじみた語句と戯れること)何故僕は該当すべきの記憶を持っていないか。それは、書くための動機の「温度上昇」が足りないためだ。絶望的に。「……について私は語りたい、語るはずだ、さぁ……を語ろう、して、この……とは一体なんなのか!」 それはきっととるにたらないものであろう。僕は驚くべきspeedによる失念を赦したそのとるにたらないテーマないし語句に向かって、届くはずもない天に向かって汚濁した唾を吐きつけるように、虚空をひとつとって投げてみる。不在なもの、不在なものに空虚なものを足すんだから結果はどうにもなりゃしない、無、ノン・サンスである。ここでいうノン・サンスは否定的な価値(および意味)を有しているが、できる限り純粋な《無》の概念の生起といったものにはこれでは到底及ぶことすらできまい。

たとえばサルトルは、初期の大著において《無》の問題をからはじめた。すなわち、「無」とはあるのかないのか(存在論だ)、あったとしてそれはどのように在ると言えるのか、という問いでもってして、まったく新鮮な存在論へ向けた哲学探究の道のりを歩みはじめたのだった。

無、それは無底とも言いかえられるだろうか。たとえば「底無し」の沼とでも表されるように。底がない。基盤がない。これは、ある立体的なイマージュをもってして一定の効果を有している言葉遣いでもある。底—ガー存在—ヲ―支える。支持基体としての底。その底が抜けたら……輝くメロンクリームソーダの入ったプラスチックの容器の底が驚くべきspeedをもってして抜けたとしたら……そこにあるのは、たしかに無だ。無底によって何らかの存在者の存在が消去される。これは自明のことのようだ。ならばこれを僕たちの出発点としようではないか。

そこで、底無しの沼、底無しの闇といったものも連想される……昏い響きよ。漸く私は、一つの信頼できるイマージュ、すなわち「闇」という語句ないし概念に出会ったことになる。ならば問いははじめにこのように変換されねばならない。(A)底無しが闇と等価であるのかないのか、あるとしたらその等号はどのようにして成り立つのか。(B)《闇》とはなんだろうか。続いて両者の問いを展開しなければならない……。

 

……僕はまた、「整形」ということについて考えている。整形への人々の関心は並みならぬものがある。僕はまたしても大きすぎるテーマをもってきたようだ。たとえば、僕のパソコンの向こう側に、顔の整形をしている(長いスパンでみれば現在進行形、未来進行形でもあるのだろう)ことを公表して活動しているYoutuberがいる。今どき、ちょっとした整形ではほとんど誰も珍しく思わなくなってきた。もちろんこれは「都会」的な現象だと思う。「田舎」の問題はもっと奥深いところにある。昔の呑気でそれなのに暴力的思考を有した僕は、身体の様々な部分への整形、整形手術を施すことを「変身願望」の一種だととらえていたにすぎなかった。それは自明の話だ。変身願望は僕にもあった、ただしそれはあくまで幼稚的な発想で、独我論的な思い付きでしかなかったのであるが。整形はむしろ改良に近い、成功したらの話だが。自己自身を高めること。このあたりに整形外科手術はかかわってくる。つまり、マインドの向上。

僕たちは、われわれは、現在圧倒的な精神の頽落の時代に生きている。弱められてしまった自分自身という一人の主体をせいぜい慰めることが一日の日課で、また次の日には労働という化け物に素で殴られるかもしれないのだ。それでも、このような精神の頽落の「原因」もまた人間の歩み、すなわち歴史——僕は戦後日本社会だと思っているが——的な事象の流れの中で決定づけられていると考える。メンタルだマインドネスだスピリチュアルだの宗教だのと何を言ってもいいが、これは間違いなく僕たちの精神が堕ちるところまで堕落した効果なのである。結果、それが身体に逆影響している気もする。これはあまりに思考を優位におき、身体を隷属ならしめる視点であろうか。しかし、身体を復権させる様々な試みがどれほど難しいことか…… 身体は自身の現状に気付ているのだろうか。身体、身体! アルトーの残酷劇、アルトーが必死の闘争の過程のなかで瞬閧のように彼に降りてきた、「器官なき身体」という恐るべき爆弾……。

 

(つづく予定です Day 0の部分はここまでです)