ある男の手記 23/7/16 大学の条件

 

 日本の四年生大学に入学したら、最短でも200万は払うわけだ。大学で何をするかといったら、基本的には授業を受けて、必要とされる単位を揃えることである。サークル・部活動、生活費を賄うためのアルバイト、友人関係に色恋と様々であるが、基本的に学業が中心であることに変わりはない。私は高校生までそれなりの、凡庸な優等生だったはずなのに、ある時期に受けた試験のすべての単位を落としていらい、私の底意地の悪い、高く括った鼻が、まるでゴーゴリの小説のように、落とし物となり、ただの肉塊となったのである。もっと本業の法律学に真剣に向き合うべきだった。

 

 とはいえ、とにかく四年間で200万。大学の教師陣の講義や、大学図書館の利用その他諸々の生徒へのサーヴィスは、それに見合うだけの価値があるという商業的観測でもある。しかし実際、その"商業的"観点からいって、大学というものの価値は、政治的エリートや経済的インフルエンサーその他諸々のSomebodyを輩出するという側面の方が強い。何を学んだかというより、その大学からどんな"就職先"へと繋がったか、である。たしかに大学には就職相談センターというものもあるし、学生は四年で学んだこと・活動したことを、あくせく就職活動の成就にうまく繋げなければならない。

 

 なんと、性急な、あまりに性急な大学生たち!四年間のラスト・モラトリアムが与えられ、あとは自立して生きていかなければならない。「自立」・「自律」が最優先である。たとえば「主体的に生きる」とかの項目はその優先リストには入っていない。

 

 大学の価値は、大学に行った人それぞれが抱く主観的なものであろう。200万というのは単なる数字か、あるいは大学に入って卒業するための基本的な条件のひとつにすぎない。しかし、大学に行ったか、行ってないか、なんてことは本来はどうでもいいはずだ。なのに人々は「〇〇企業には〇〇大学の採用枠があって~」なんてことをまことしやかに話す(実際、それは本当であるケースが多いだろうが)。大学名が一人歩きする。所詮、世の中やテレビの世界はそんなものだ。どの大学に入ったか、どの大学を出たか。違う。大学に入ったのなら、その四年間で何をやったかだ。

 

 私は学業を疎かにもしたし、サークル活動でさえ中々うまくいかなかったし、アルバイトも長続きしたところはひとつだけであり、現在では連絡を取り合っている同級生もほとんど居ない(公職や大企業を目指していた人々は今、つつがなく上品なエリートとして暮らしているんだろうか)。

 

 私は若かったのではない。あまりに幼かったのだ。大学生になっても、人間の肝心の魂が幼稚ときては、色々とつまらない情けない些事の目まぐるしい連続に、人生の多くを譲り渡してしまうわけだ。人生とはなにをどうやってもけっこうつまらないな、うまくいかないから面白くないなとも思う。