批判哲学と歴史哲学について

 

■はじめに

 以下は、三木清の大学の卒業論文である「批判哲学と歴史哲学」という単行本で80頁ほどの文章を読んで、雑感をまとめたものである。三木清全集第2巻『史的観念論の諸問題』に所収されている。正直難しい論文である。80頁であるがゆえに、凝縮しすぎて、議論がまとまっていない印象も拭えないのが僕の正直な感想である。

 

三木清全集〈第2巻〉史的観念論の諸問題 (1966年)

三木清全集〈第2巻〉史的観念論の諸問題 (1966年)

 

 

 さて、「批判哲学と歴史哲学」というタイトルについてであるが、「批判哲学」とはカントの(批判)哲学を指す。三木はカントの哲学(三大批判書や、『単なる理性の範囲内における宗教』などの著作)を読み解くことによって、カントにおける批判哲学から歴史哲学への結実を描き出そうとしている。カントの認識論、実践論、芸術論がいかに「歴史」の話題に接続するか。三木清のこの論文は、カントの以下の文を読み解くことにほぼすべてを捧げているといって過言ではないだろう。

 

 自然の歴史は善から始まる、神の業なるがゆえに。自由の歴史は悪から始まる、人の業なるが故に。

――カント「人間歴史の憶測的端初」(三木自身による引用)

 

■自由の種類

 人間は自由な存在である。このことを明確にカントは肯定していると僕は思う。そして、三木もそう考えているはずである。しかし、人間が自由な存在であるとしても、歴史はまったく自由ではない。今のところ、《歴史》は「ただそうなってきた過去の積み上げ」のようにしか思えない。つまり、歴史はこの意味において不自由である。だとしたら、歴史と人間は無関係なのであろうか? 

 歴史は時に無情で、それは人間の知性の支配圏の外にあるように思える。それでは、歴史はいったい何によって「基礎付けられ得る」か=根本的に説明することができるか? 

 カントは、超越論(先験論)の立場を繰り返し説いた。ここでは特に「超越論」の意義を明らかにすることはしないが、簡単に言えば「メタ」ということである。カントはたとえば「自由」を説明しようとするとき、「超越論的自由」つまり「メタ・自由」について考えた。つまり、単に「自由とは何か」と問うに留まらず、自由そのものを発生させる・基礎づけるものは何か? という問いへと進化させるのだ。さて、超越論的自由というものがある。

 三木は「超越論的自由の本質は非合理性にある」と述べている。どういうことかというと、超越論的自由、メタ自由なるものは、そもそも人間の知性では測りしえぬものであると言っているのである。それは人間の知性では語りえぬゆえに「非合理性」である。このような非合理的な自由を、三木は《個体の自由》と定義づける。個体とは、概念的な把握である《法則》を超えたところに存在するという意味で、非合理性であるからである。そしてこの《個体の自由》は、《歴史》を基礎付け得るだろうか? と三木は問う。この問いに三木がどう結論を下すかを書くのか? それはあっけない結論であるのだが、ちょっと後に回そう。

 

 先にもう一つの自由の種類について述べておかなければならない。それは《永遠者の自由》と三木が定義づけるものである。どういった自由かというと、それは”実践的自由”のことである。

 

 道徳の完成のために、自由の全き実現のために、不死の要請を樹てねばならぬとカントの云った如く、実践的自由は我々には到底到達の恵まれ得ぬ理想である。それ故に私はこれを永遠者の自由と名付けよう。

――三木清「批判哲学と歴史哲学」

 

 

 ここには、自由‐実践‐道徳という概念の系列が見えるであろう。実践的自由とは、人間の道徳を完成(実現)するために使用される自由のことである。道徳の完成、ひいては自由の完全な実現というのは、およそ不可能なことであるから、それは永遠者=不死者の自由と呼ばれるわけである。

 

■第三の自由

さて、2つの自由を三木はカントの批判哲学から引き出した。《個体の自由》と《永遠者の自由》がそれであるが、この2つはどういう関係にあるのであろうか。三木はこのように述べる。”超越論的(先験的)自由がすべての価値的規定から離れて純粋な非合理性にそれの本質を見出したに反して、実践的自由は理性との全き関係において純粋な合理性にそれの核実を発見する。一は汎価値的概念であるに反して他は価値概念である。”このように、《個体の自由》は合理的であり、《永遠者の自由》は非合理的であるという性格づけがなされる。

  ここまでしばらく《自由》について述べてきたが、実は三木はこのうちのどちらの《自由》も《歴史》を十分には基礎づけえないと論証している。(!) というのは、自由の「実現」のためには、《個体の自由》だけでも《永遠者の自由》だけでも成り立たないからである。そこでは、《個体の自由》と《永遠者の自由》が結合される必要がある。しかし、この「結合」がどうやって為されるのか、三木は文学的な言葉でのみ表現し、「論理的に表現できない」と論証を諦める。しかし、《個体の自由》と《永遠者の自由》の結合体は存在する。それを三木は、《現実的自由》と述べるのである。

 

 ■歴史と神

 さて、カントによると「自由の歴史は悪から始まる、人の業なるが故に」、であった。この命題を、「悪」という概念を捨象し、かつ今までの議論を含めて言い換えると次のようになる。「現実的自由の歴史は人間に結びついている」。人間が、行為主体として、自由を実現させるプロセスこそが、《歴史》なのである。この《現実的自由》という概念こそが《歴史》を基礎づけるものであるのだが、これではまだよく分からない。

 少し視点を変えよう。「自由の実現」はどのように為されるか? おそらく、僕の受けた印象では、自由は「道徳」的に使用された場合にのみ、はじめてその全き実現を獲得することができるのである! この《道徳》という概念の登場は、カントの三大批判の内の第2巻、『実践理性批判』の議論に基づいている(と、三木は解釈しているのだろう)。

 これをもっといいかえると、次のようになる。道徳は、「自由」の「理性的使用」において全き完成をみる。自由は理性的に使用されるべきであるのだ。自分の意志は、自由であるべきだろう(自由意志=原因)。それを、理性の範囲内で用いた場合に、初めて「自由な行為」(=結果)が実現されると僕たちは言えるのである。自由の理性的使用によって、道徳ははじめて完成される。

 そして三木がここにさらに付け加えることがある。それは「自然」の議論である。何度も繰り返すと、カントはこう言っている。

 

 自然の歴史は善から始まる、神の業なるがゆえに。自由の歴史は悪から始まる、人の業なるが故に。

――カント「人間歴史の憶測的端初」(三木自身による引用)

 

   自由の理性的使用は、その対象を《自然》(=非・人工物)とする時にも発揮される。自然は人間の支配下に置かれるが、それは人間が《文化》(の維持や向上)のため、という目的を有するときにのみ正当化されるのである。そのとき、自然の理性的使用が実現する。

 しかし、カントは自然の歴史というものは「神の業」から成ると言っている。これはどういうことだろうか? 歴史は、「自由の歴史」と「自然の歴史」から成るが、そのうち《現実的自由》は、自由が理性的に使用されることによって初めて実現し、すなわち《自由の歴史》となるのであった。しかし、《自然の歴史》は、自然の理性的使用だけでは説明がつかない。自然は人間以前に始まっているからである。ここに、《神》という概念を持ち出す必要がある。

 

■歴史哲学へ

 少し別の方向から見てみよう。(カントの)批判哲学においては、《自由》の理性的使用こそが現実的自由を出来せしめ、よって《完成された道徳》を生み出すのであった。ところで三木はこう述べているのである。

 

 カントの思想として有名であり、そして『実践理性批判』において殊に明確に規定されている「最高善」は、徳と福の完全な一致という意味である。完成された道徳と完成された幸福は異なったものであって、前者は後者を必然的に結果しないから、両者の関係は偶然的、間接的であるにすぎない。ここに神の存在の要請されるべき理由がある。

――三木清「批判哲学と歴史哲学」

 

 自由の理性的使用こそが、道徳を完成させる。ここは、カントの「批判哲学」の領域に対応する。しかし、それだけでは「幸福」を実現することはできない。完成した道徳→完成した幸福 このような図式の中で、→を成り立たせるのは、《神》である。ここに、三木が以下のように言った意味がある。曰く、”歴史哲学の最後の問題は宗教哲学において解決の安定を得るのである”。 三木は宗教哲学についてもしばらく触れている。しかしここで刮目すべきなのは、《最高善》 という概念であろう。おそらく、カント=三木は、ここでは《歴史》は《最高善》という「目的」=方向を有している、と考えている。そして、《歴史》をこのような《最高善》へと向かわせるものこそが、カント=三木が「歴史的理性」と呼ぶものなのである。この《歴史的理性》を批判することこそが、「歴史哲学」の総体であると、彼は結論づけている。

 

■さいごに

 《自由》というものの存在を、カントは肯定している。そのうえで、カントは2種類の自由の議論を持ち出す。それが《個体(死すべき者)の自由》と《永遠者(不死者)の自由》であり、前者は非合理的であり、後者は合理的である。この合理性/非合理性をアウフヘーベンするものが、《現実的自由》という第三の自由の概念であり、この《現実的自由》は説明不可能なものとしてただ「実在」する、とカント=三木は述べている。この《現実的自由》の樹立こそが、《自由の歴史》である。

 《自由の歴史》は人間に対応する。ところで、他に《自然の歴史》というものがある。しかし、私見によれば、この《自然の歴史》は、人間がある程度「支配」している。現に自然の歴史に対して人間が介入しているからである。ところで、《現実的自由》の樹立、言い換えると「自由の実現」化は、一例として自然を「理性的に」使用することにあるのである。《自由》や《自然》を理性的に使用することが、人間の為すべきことである。

 そして、この「理性的な使用」こそは、「道徳を完成」させる。しかしここでは、完成した道徳はただちに《幸福》を実現させない。完成した道徳は、《神》の恩寵や働きによって、はじめて「完成した幸福」を出来させる。そしてこのとき、《最高善》が実在し、《歴史》は《最高善》という方向=目的を獲得するのだ。《歴史》を《最高善》という目的へ向かわせるもの、それが人間の単なる理性を超えた、”歴史的理性”の意味するところなのである。この《歴史的理性》をさらに明らかにすること、それを批判することが、「歴史哲学」なのである。

 

……というのが、今僕ができる精一杯の要約なのであるが、やはり議論が難しいし、三木の頭の中ではカチリカチリと嵌まっているのかもしれないが、論の運びが複雑である。

 しかし、僕のまとめはもっともっと酷い。「自由の(理性的)使用」という用語の使い方は正しくないかもしれない。しかし、そのような表現をしないとうまくまとめられないと思ったので、ここに断っておきます。