ミクロ政治学的探求(3)——奴隷の時代(続)

 

前回(2)の記事↓

hh26018823.hatenablog.com

 

ニーチェの批判

 

 ニーチェは「奴隷」という存在に対してまったく「同情」をしない。ニーチェにとって同情心は唾棄すべきものであるのだが、その論点は省くとしても、ニーチェは奴隷存在をすさまじく批判する。それは何故なのだろうか?

 僕は、現代人は皆が奴隷的存在である、とはじめに仮定した。ではどのように奴隷的なのか、詳細してみよう。

 すでに述べた通り、加速する資本主義社会の下では、人間は、仮初の主体性を付与され、そのことによって「自分は主体的に=自分の意志によって職業選択や趣味を実行している」と「錯視」する。そしてさらに、事実としては人間は社会構造=資本主義システムという非人によって支配され、自己はその部品として資本主義を回すだけの卑近な存在へと「変容」させられてしまうのである。この二つがポイントである。つまり、現代人は「世の中はこうなっているから」という錯視のもとで、自分の真の望みの生き方を否認して諦めるなどして、真の意志に気遣うことを辞め、市場社会に積極的に参加していると「思わされている」のである、云々。

 

 これは言いすぎか? マルクスニーチェはこの点に関して、(僕の考えでは)共通した意識を持っていると考えられる。マルクスはどうかは分からないが、ニーチェはさらに先に進む。

 現代人は、あたかも自分が主体的に生きているという風に「思わされる」。しかし、そのことに罪は無いか? 一度も自分の生き方を反省したことのない人などがそうだ。ここでの反省の意味とはきわめて哲学的な意味での省察のことで、すなわち自分の生き方を「疑ったりする」ことのことである。確かに、自分の生き方を疑ってついには否定するに至るなどの経過は苦しい。しかし、自己批判もできないような人間など、奴隷になって当たり前なのではないか? 奴隷は、(2)の記事で述べたように、実は自由をある程度手にしているのだから。その獲得する自由の中で、自分の生き方を省察する=時には疑ってみることを、すればよいではないか。これは確かに厳しい意見のようにも思えるが、ニーチェはこのように考えていたのではないか。

 結果として、「主体性がある」と錯誤させられた存在は、自己にとって真の意志(本当はこう生きたかった……、あるいは無意識ではこういう生き方を欲していた……)を否認するなどの方法によって、「資本の部品」に成り下がるのである。そこにニーチェは非難を加えるのだ。優しめに言っても、奴隷、確かにそれは劣位的な存在だが、自分で招いたことではないか、と。

 

 以上は分かりやすく説明したまでである。しかし、ことに「自己の生き方に対する省察を加えないこと」に対する非難などについては、ニーチェ哲学の本質であると思われる。世間を疑ってみること、批判を加えること、真の意志に耳を傾けないこと……

 

それこそが、資本主義システムの企みである。今や、この人ではない資本主義は、主体の地位を勝ち取るにいたった。そのオートポイエティックな身体の中で、人間の生産活動を栄養とし、その中で人間は資本に仕える奴隷として、溺死する。そしてそれは、近代のほとんどの人間の姿だったのではなかろうか。

 

misty