ミクロ政治学的探求(2)——奴隷の時代

(1)の記事は以下

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ミクロ政治学的探求(2)

 

■資本主義とオートポイエーシス

 

 現代は奴隷の時代である、ということを命題として検証してみたい。現代は奴隷である、と言うとき、それは人間みなが奴隷に「成り下がっている」ということである。では主人は誰か? 主人はいないか、もしくは資本主義というシステムが主人である。つまり、非人、人でないものに私たちは奴隷として仕えているわけだ。若しくは、フーコーパノプティコンシステムのようなものを考えてもいいかもしれない。私たち奴隷は一望監視システムのもとに管理され、その一望できる監視の視点には別にだれか《神のごとき人》がいる必要はない。むしろ、神の視点は不在なのである(ニーチェを連想しよう)。視座に人間はいない。もし、資本主義が認識を持っているのなら、目を持っているのなら、話は別だが。

 

 資本は主体である、主体的であると言ったのはマルクスであった。資本は資本それ自体だけで独自の運動性を持つのである。人間が資本を動かすように見えながら、マルクスはそこに逆転の発想をみてとった、つまり「資本が人間を動かしている」のだと。したがって僕たちはマルクスの説を信じよう。マルクス的な言説に加味すれば、資本は主体的であり、資本主義はそれ自身のみで「自律」した、(ルーマンが言う所の)オートポイエテイックなシステムである。

 もう少しこのオートポイエーシスについて説明しよう。ルーマン社会学の議論である。オートポイエーシスは、生物学でいうところのホメオスタシス的な概念から出発している。人間は、体温の調整を自動的な血流の循環などによって自動的に調整している。つまり、人間はある程度自身の身体だけで体温管理をすることができるのである。こういう、それだけで満たされた、閉鎖的な空間でも循環運動とかをすることのできるシステム(ここでのたとえなら、血液循環のシステム→体温の維持(ホメオスタシス)を、「オートポイエーシス」(オートポイエティックなシステム)と名付けた。これはルーマン社会学の一番重要な概念である。

 このルーマンの議論も援用すると、《人間社会》は自律した一つのオートポイエティックなシステムであるということができる。それはどういうシステムになっているかというと、特に「市場社会」において資本が主体性を有し、人間は(資本家であろうが労働者であろうが)資本に翻弄される、もしくは資本体制の一部品として、その存在を規定される。 資本主義の下では、人間は自動的に奴隷「的」な存在となるのだ。

 

■主体幻想とヘーゲル

 

 資本主義体制=システムのもとでは、資本が主体的であり、人間―存在は資本に仕える部品、すなわち奴隷的な存在に成り下がってしまう。というか、僕は人間が主体的であるという事は、括弧つきの、留保するべき思想だと思っているので、この留保のことを何かほかの言葉で呼び変えよう。「人間は主体的である」という「主体幻想」と呼ぼうと思う。この主体幻想は、近代が作り上げた肯定的で賞賛もするべき遺産である。人間が主体的であるという発想を最終的にはとってしまったサルトルの「哲学的実存主義」などはこの主体幻想の思想であると言えるだろう。

 もっとも、注記する形で言っておきたいのは、サルトルは哲学者だけではなかったということである。彼は哲学上の実存主義をその著名な講演集である『実存主義とは何か』などでまとめたが、それは僕の考えによれば「哲学上の(思想上の)」実存主義である、ということだ。どういうことかというと、サルトルは同時に小説家でもあった。彼の実存主義的な探求は、哲学からでなくこの小説=文学としてもなされたのである。これを「文学上の実存主義」と呼ぶとすると、サルトルには二つの実存主義があったことになる。そして、主体幻想的な思考は、哲学上の実存主義を批判しなければならない。

 つまり、話を元に戻せば、主体幻想は何か別のものが人間に「錯誤」を与えている、と言えるのだ。人間にかりそめでしかない主体性を与える。そのことでかろうじて人間は自分が主体的に生きているという実感を持ち、そして今日とて苦しみながら労働市場に足を運ぶのである。

 

 資本主義は、前期資本主義と後期資本主義にわかれるが、おそらく現代は後期資本主義の極致とでも呼べるような状況になっている。資本主義の「加速化」、加速化された資本主義が現代の世界を覆っている。ここではありとあらゆる世界のものが生産され、消費され、循環して、人間は動き、同時に資本も動いている。もちろん資本が主体的で、人間は主体幻想の働きによってかりそめの主体性を有している。だがその実は、奴隷なのだ。

 

 ニーチェは、奴隷の精神性といったものを厳しく批判することで知られる。そのことはまたあとで議論するとして、ニーチェの奴隷論を話す際には、ヘーゲルの奴隷と主人の弁証法の議論を説明しなければならない。この「主人と奴隷の弁証法」はヘーゲル哲学の最重要のテーマであるが、たとえば現代哲学者のスラヴォイ・ジジェクがこの問題をねちっこく扱っている。どういうことか。

 簡単に言えば、主人の優位性と奴隷の劣位性が逆説的な仕方で逆転をする、というような話だ。普通は、主人が奴隷に命令をし、奴隷は主人に仕えることでその上下関係を固定させる。この意味では奴隷は自由で主体的な存在などではない。しかし、奴隷には意外にも自由があったという。奴隷は言いつけや仕事のなどが無い時間には、自分の自由な時間を過ごすという事もあったにはあった。また、奉仕することで、逆説的に主人をその「上下―関係性」として締め上げる、固定化する、その関係性をより強度に固定することで主人を「奴隷から離れられない」ものとして支配する、という考えの線がある。

 主人ははんたいに、「奴隷を使用できる」という条件の下奴隷をこき使うが、実はそのことで逃れがたい上下関係を作成してしまう。主人は奴隷なしで生活をすることはできない。その意味では、主人の自由度は低いのだ。

 奴隷の意外な主体性(自由度)。主人の意外な不自由(主体度)。これが、主人と奴隷の弁証法の簡単な話である。

 

 ■ニーチェ

 

 ニーチェは奴隷の精神性を批判する。どのようにしてか? それは、(3)の続きで説明する。

(3)へ続く

misty