ある男の手記 8/21

音楽とは自由のことである、と俺は思った。だけどまたそれも、微妙に違うようだ。いや、違いは些細な程度ではすまされないだろう。

 

 確かに音楽は自由を「志向」する。自由でありたい、より自由であろうとする態度が、音楽を制作し、音楽を享受し、音楽そのものを目指す態度志向であるとおもう(俺はフッサールのこともよく弁えずにこう発言しているわけだが)。だが、自由は、飛び立つ一羽の蒼い鳥のようだ。捕まえた途端、どこか違う方向に飛び去って行く。なぜなら、そこにはもう自由がないと判断したからだ。

 音楽は、自由を志向するものであるに違いない。しかし、一度自由を手にしたと思った矢先、今度は不自由な方向に逸れていく。

俺はそれを、ジョージ・ガーシュウィンラプソディー・イン・ブルーを(レナード・バーンスタインの指揮と演奏で)聴きながら、感じた。むろん、ラプソディー・イン・ブルー自体は、とても自由で奔放な曲だ。バーンスタインそのもののような音楽だ(と、バーンスタインをそこまで聞きこんでいないにも関わらず俺は発言する)。それは次第に混迷するクラシックの歴史に、ある大きな一撃をもたらしたに違いない。しかし、ひとつ上の視点、音楽の歴史から(現在から事後的に)鑑みるならば、ガーシュウィンの音楽は、伝統的なクラシック音楽とその後のジャズ音楽の隆盛の分岐点となってしまったような存在でもあるのではないか。そして、ジャズもまた、21世紀になってふたたび埃を被った古典へと生成されてしまっているのではないか。

 かくして自由はいつの間にか(歴史の)必然と置き換わってしまう。なにもこんな大きな話をするためにガーシュウィンをもってきたわけではない。ラプソディー・イン・ブルーは、それを制作/演奏/聴取している時間の内にだけ、その自由性、圧倒的な自由性が享受される。しかし、音楽の歴史として張り付けられた知識=教養としてのそれには、不自由さしかない。自由は飛び立つ鳥のよう。

ならば、我々人間もまた自由と不自由を行き交う音楽のような存在者なのだろうか?