ミクロ政治学的探求1

 

 

 

 

 

 

ガタリジジェク政治学

——フェリックス・ガタリの思考の一つに、「ミクロ政治学」という概念がある。これはいっけん掴みにくい言い方だが、通常の「政治学」、政治現象や議会政治や政治システムといったものから国際関係までを学的に探求する通常の政治学はおそらく「マクロ政治学」とでも呼び現わされ、その対抗としての、もしくは「別の仕方での」政治への探求、これがミクロ政治学もしくはマイナー政治学ガタリが呼ぶものである。

 

 ガタリの思想を置いておくにしても、「全ては政治だ」とでも言いたくなる直観が僕の中にはある。その糸口を最近提示してくれたのが、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクが新刊(2018年時点、『絶望する勇気』)で書きつけていた、

 

 政治が宗教なのではなくて、宗教が政治なのである

 

という彼のいつもの逆説的な言説を、箴言として扱ってみたい。

政治と宗教の関係についてジジェクは『絶望する勇気』の第三章でイスラエルユダヤ人問題のトピックを正面から扱う際に論述しているのだが、まぁ要するにイスラエルでおこっているアラブ人、ユダヤ人、その他国家としてのアメリカの介入、若しくはISによるテロ行動など、政治は宗教と(特にこの地域において)密接であることは必然、という流れの中で上の箴言を書きつけている。 政治が宗教なのではない。もともと宗教が政治なのだと。これはどういうことだろうか?

 

■宗教が政治であるとは?

 政治が宗教なのではなく、(そもそも)宗教とは政治である、ということ、これは一体何を「意味する」のか? 特に、「宗教が政治である」ということの謎を、解明してみたい。これをクリアすると、たとえば僕が直観で考えている、「政治がメディア的なのではなく、そもそもメディアとは政治だ」というジジェク箴言をスライドさせた言説が可能になるからだ。

 

 しかし、その前に宗教と政治である。

 

(1)大江健三郎

 大江健三郎の後期やレイト・ワーク期の作品は、宗教および宗教団体(新興宗教)そのものを扱っている。これはいったい、大江は作品を通じて何を描こうとしていたのかという、文学の話を本論の援用として思考することにつながる。

 たとえば、『燃えあがる緑の木』や、『宙返り』などがそうだ。この両作品はストレートに宗教および宗教団体の内部と外部を鮮やかに描いている。

 

 この手稿では明らかにできないが、『燃えあがる緑の木』や『宙返り』などで起こる一切の出来事は、ひとつの宗教および宗教団体がどのように誕生し、展開し、完結もしくは終局を迎えるかという事についての作者(大江)のひとつの思考実験として捉えることが可能であるということだ。この点は重要である。この視点は僕の戦略の一つとして積極的に導入したい。 しばしば、現実の宗教団体は掴みづらい。もちろん、オウム真理教などについては、十分参考文献が出揃いはじめている。

 

あとは中村文則の作品なども使えるかもしれないが、今の時点では僕は読んでいないので保留する。その他、宗教文学と言えば日本では遠藤周作がすぐ思い浮かぶが、彼の作品は、一人の登場人物の内心における信仰が(日本という西洋から見れば”辺境”の土地において)実直に文学的なテーマとなっている。

 

 話を最初に戻すと、ガタリが「ミクロ政治学」という概念を多々使用したのは、決して領域が小さいという意味でのミクロな政治現象を探求しようとしたのではなくて、むしろ彼が探求したのは『三つのエコロジー』という作品からも伺えるように、従来の社会概念や世界概念にはない、独特の社会カテゴリの連接における巨大なワールドだった。ミクロ政治学は手法としてあり、その手法を用いてたとえば環境と精神医療と資本主義を斜めに横断してひとまとめに考察することが可能になるというような、そういう概念なのである。

 

■再び、宗教がそもそも、本来的に、政治であるとは

 

 マルクスおよびアルチュセールの上部構造と下部構造の議論。これは、簡単に僕が見るに、下部構造としての経済=政治領域は、科学や技術や芸術や宗教といったあらゆる他の領域もしくはカテゴリを、一種のイデオロギーとして作用させ、その中に生きる主体としての私たち人間はあらかじめイデオロギーイデオロギーと見抜けずに生きている、そんな錯視の構造になっているというお話である。だいぶ簡単にまとめてあるので、これからもっと詳しく展開する必要がある。

 

 マルクスはどうも、一般の経済学を批判する仕事を一生をかけてやることで、経済学=政治学的カテゴリが、ただひとつの世界を真に構成するもの、すなわち唯物論的史観にまで論を体系化するのだが、そのような経済学的カテゴリが世界のすべてをイデオロギッシュに(ないしはフェティッシュに)化体させる、という議論を後世に伝えたらしい。その代表格がアルチュセールである。

 

 この「イデオロギー論」(ないしヘゲモニー論でもあまり変わらないかもしれない)の産みの親であるアルチュセールの仕事は、僕たちの「宗教は政治である」というテーゼと関連させることができるかもしれない。すなわち、アルチュセール的なものの見方で言えば、宗教とはひとつのイデオロギーなのである。ではいったい、アルチュセールの言うイデオロギーとは何か?

 

この論的探求は、連載となるかもしれない。