カフカについて(連載予定)

カフカについて(長期連載予定)

misty

 

 

1 彷徨と外部性

 

■彷徨

 カフカについてまとわりつく思考とも呼べないただの想念のまき散らしにかなうものと言ったら頭痛くらいのものである。カフカにはまるとなかなかそれから抜け出せない。

先日、モーリス・ブランショによる論文集『カフカ論』を読んだ。最初にこの論考で話そうと思うのは、次のことである。ブランショは次のように書いている。「カフカの作品は……(中略)……彷徨であり、彷徨の領域に存在する」云々。彷徨とは、あてもなく、つまり終着点や目的を一切持つことなくさまよう(彷徨う)ことだ。作品の構造上終着点がない、とはまさにカフカの作品である。とりわけ『アメリカ』、『城』が未完成作品であることはよく知られている。『城』はいっこうにたどり着かない目的地であるはずの城の領域から外れて、どんどん彷徨っていく。ある意味、カフカは移動性を持つ文学ということも言えるかもしれない。その点で言うと、『変身』におけるグレゴール・ザムザは自分の部屋からほとんど動かなかった(動かないという静的運動、あるいは単に運動の停止)。だから『変身』の結末ではザムザは死ななければならなかったのだろうか? ちなみに、ブランショは『カフカ論』のなかで、マックス・ブロートのカフカ評伝にもしばしば言及し、カフカがブロートに秘密裏に伝えたところによると『審判』でも『アメリカ』でも『城』でも最終的には主人公を死なすと考えていたようである。それはいったい何故なのか?

 

 おそらく、彷徨うことは、そのまま生きることでもあるからだろう。生はなんのためにあるか? この問いに普遍的に答えることは不可能である。だから生は個人化、特異化されてしかるべきだが(ここでは生権力というフーコーの重要な哲学概念はいったん括弧にいれておこう)、それでも「あなたの生はなんのためにありますか?」と問う人がいたとしてその問いに満足に答える人は皆無であろう。人間は生まれてきた理由を知らない。なぜならば、理由など存在しないからである。鬼束ちひろの『月光』ではないが、生まれてくるのに何の理由もなく、この「腐敗した」世界に産み落とされてくるのである。

 それで、哲学者や教養人は、「第二の生」、つまり自分の所与の生をより「善き生」へと編成するための思考運動を提出するのであろうか。話を戻したい。人は生まれてくるのに何の理由もなく、そして死ぬのにまた何の一つの理由も要らないのだ。それは人間が生命ある自然史の中の条件にがっちり組み込まれているという事である。

 だから「彷徨」という概念をブランショが鮮やかに持ち出したことは実に正しい。カフカにとって、生きることは彷徨うことであった。死ぬために生きるのでもない。いわばカフカは彷徨を通して、終着点=死をかなたに捨て、「永遠の生」=「永遠の彷徨と孤独の咆哮」を作成したのではなかろうか。これがとりあえずひとまずの筆者の立場である。生きることは彷徨に等しい。

 

■よくある外部への締め出しという構造

 

 それでは、いよいよ「彷徨」というのは詳細にはどんな文学的概念になりうるのか、カフカは彷徨たる生を作品の中で具体的にどのように描いているのかという説明に入る前に、もう一つ「彷徨」議論の近くで論点に挙げていたブランショの記述を参考にしたい。それは、ポストモダン思想ではお馴染みの、「全体へと内包することで逆に外部へと排除=締め出すことが可能になる構造」のことである。これは、内包と排除の区別がつかずに一体化しているものである。たとえば、近年の禁煙・分煙・そもそもの煙草撲滅運動の加速化と社会の方体制の着々とした整備がある。分煙システムなどはまさに画期的なシステムであって、喫煙者は狭い休憩所スペースなどで煙草を吸うことがやっと許され、そのことによって非喫煙者受動喫煙を被ることがない。ここで(日本、というか世界中という意味ではグローバルな)社会が健康シンドロームによって自分自身を管理するオートポイエテッィク・システムが現代の雛形となる。「タバコを吸うことは禁じられてはいない」。しかし、分煙スペースは肩身が狭く、おまけに年々の煙草にかかるコストと税金も追い打ちをかけ、医者は健康サービスを押し売りし、世論は撲滅ムード……。喫煙者は分煙制度などによって一見社会に取り込まれているように見えながら、実は「健常者・健康な非喫煙者」を理想とする健康シンドローム型社会から締め出しをくらっているのである。もちろんここにアーキテクチュアルな権力論を展開することは可能であるが助長などでやめておく。

 話を戻すと、全体へと内包することで逆説的にその外に締め出して対象を宙づり=ヴァルネラブルな立場におく現代型、ポストモダンイデオロギーがある。カフカはこの悲しむべき現代の予言者であったとも言えないだろうか。

 ドゥルーズガタリの『カフカ マイナー文学のために』が指摘する通り、カフカはそもそもチェコ生まれのユダヤ人であった。それだけでなく、当時のチェコの公共語はドイツ語であった。カフカはドイツ語で自分の作品を書くことを選択したのである。自分の出生から、アイデンティティから締め出され、ドイツ語という自己から離れた言語でなおも自分の作品を書きあげなければならないという立場……これこそは、内包=排除型の構造ではないか。

■彷徨の条件、『変身』と彷徨

 それでは〈彷徨〉と内包=排除型の論理構造はどのような関係性にあるか、なぜブランショは『カフカ論』のなかでその二つの概念ないし展開を近づけて考察したのか。内包されることで排除された、宙づりになるトポスのことを、Aと仮に呼んでみよう。カフカはこのAに「存在」しただろうか? カフカの作品は。そうなのである。しかし同時に、そうではない。Aというのは大地や根のない宙づり領域であり、そこはトポスではありながら徹底して非―場所なのであある。

場所でありながら、非―場所でもあるA……これがカフカの「立ち位置」であったと考えることはできるだろうか。そうならば、それゆえ、カフカは常に「彷徨」の思想につきまとわれた、あるいは自ら追求し続けたのではなかろうか。『城』。測量士Kは、街を「徘徊」することを禁止されてはいない。しかし、城へのアクセス権が認められているかどうかは非常に怪しい。短編「掟の門前」でもそうだ。掟の門の前で、主人公憲兵に阻害され立ち止まることしかできない。結果、その門前をくるくる徘徊したり、じーっと座っていたり、憲兵に飴を与えようとする。しかし門のくぐりを許可されることはない。物語の終末ではいよいよ掟の門は閉じられようとしている。これはいったいどういうことなのだろう。

 カフカの作品の主人公たちは彷徨を義務付けられている。それは、内包=排除型の論理構造、ないしイデオロギーの作用そのものなのである。『変身』では、記述こそとぼしいものの毒虫となったザムザが外出することは許されず、しかし家の部屋にはいてよい、という条件で、ザムザの家庭に内包=迎え入れられながら、自分の部屋へと追いやられている。だからザムザは天井に上ったりすることが大好きなのだ。彼は運動を止めることをしない。きりきり回ったり、椅子の下にもぐりこんだり、足を動かしたりするのである。『変身』における彷徨は、ザムザによる同一の自分の部屋にい続けるのだが、それは全体としての(ザムザの)家族、愛する妹と弱い母と同族嫌悪的な父とに内包されながら排除されることで成り立っている。彷徨、彷徨いの第一条件は、人または彼/女が社会や家族や国家や世界と言った集団からの、内包=排除をくらったときなのである。そのときはじめて目的なき彷徨がはじまるのだ。

 

次回 『城』と彷徨