神の回帰、あらゆるものが崩壊する時代に(エッセイ)

■神の回帰、あらゆるものが崩壊する時代に

 

神は死んだ」というニーチェ箴言は、キリスト教の文化を地盤としたヨーロッパ大陸諸国にとってこそショックだった。日本は西洋ではないし、現代にいたっては無宗教の人々が一番多く、せいぜい「神は死んだ」という言葉はファッション感覚で用いられるに過ぎない。

 

 ところで、神に願掛けするとか、神頼みとか、ゲン担ぎとか、そういうことを口にしたり思ったりしたことはあるだろうか? 一回もそういうことをしなかった人はいるだろうか。僕は無宗教の人だ。実家は天台宗らしいが、儀式として流れに沿って葬列に参加したりしているだけで、精神的にはまったくの無宗教といっていい(手塚治虫の影響で仏教的な考えにはものすごく影響を受けているけど)。

 

  さて、原理的な思考をしてみたい。西洋的な「神」の概念は何だろうか、という問いを考えてみる。

 まさか、近代以降にあって、神が実在のものとして「存在」すると思っている人々はかなり少数であったろう。むしろ神は信仰の対象であったろう。モンゴメリの小説『赤毛のアン』の主人公のアンが毎晩神様に向かって祈りを捧げるように、それはより精神的な存在であったろう。

 それでは信仰の対象である「精神的な存在」とは何だろう? 精神的な存在としての神とは、具体的にはなんであろう? このことを深く考えてみると、実はかなり曖昧、人々によって答えは千差万別のようにならないだろうか? 第一に、神といってもどんな姿形をしているか分からない。第二に、それは人間に似ているのかそれとも動物に似ているのかもわからない。第三 この世の地球の存在者と同一の存在であるのかもわからない。このうち第三の点が厄介である。

 話が少しややこしくなるが、ハイデガーは20世紀の哲学において、「これまでの哲学者は、人や動物や石ころは当たり前のように存在したり死んだりして消えると思ったり考えているが、では実際のところ存在の仕方を真剣に思考した者はアリストテレス以降居なかった」と思索した人である。そう、存在者である人間や動物については哲学上の議論が深化していったが、肝心の「ではどのように存在者は存在しているか」という原理的な思考を忘れていたのではないか、と。このことは、カント以後の認識論的転回を批判している。カントの認識論の重大な問題の一つは、おそらくこうであろう。認識者は世界を自身の眼鏡のフレームのようなもの、フィルターのようなものに掛けて認識している。そこから、カント以後の哲学観では、「素朴な世界(目の前に机がある、遠くに一本の樹木が立っている」が目の前に広がっているのではなく、目の前の木目調の机が陽光に照らされて私の目に入ってくる、だからといってその机はほかの人やほかの時間帯によっては見え方=現象の仕方が変わる」といった風に共通見解が変わったのである。ハイデガーはこのような認識論、認識者の捉え方によって世界が実在しているという議論を斥けたのだ。ではどのように斥けたのだろうか?

 主体が世界を認識するとき、それでは主体はどのように存在しているのだろうか? カントはこの答えの究極の根拠として、「理性」を持ち出した。理性は超越論的自我とも呼ばれる。この超越論的自我というのが確かに人間には備わっていて、超越論的自我によって世界は実在したり、人間は判断を下したり、知識を獲得したりするのである、云々。僕の考えでは、カントはこの時ほんの少しばかり「神の概念」を持ち出していると思う。ハイデガーもきっと同じようなことに瞬時に気が付いていたのではないだろうか。というのは、超越論的自我=理性というものは確かに「存在」=実在しているんだ、なぜならば…… カントはこの「なぜならば~」の理由提示をしているのだろうが、僕は残念ながらカントの主著『純粋理性批判』を最後まで読んでいない。しかし、超越論的自我が実在するということに対する明確な根拠提示には、カントは失敗しているのではないかというのが僕の推測だ。カントは「究極の根本理由」を持ち出している。究極の根本理由は、わかりやすい例でいうと「ルール」である。

 

 日本人はよく、「ルールはルールだから(絶対に守れ)」と言うことがある。ルール(規則)は何が何でも守らなければならない、なぜならそれは守らないといけないものだからだ、だからあなたも私もルールを守るのだ、というスゴみを帯びた白痴的三段論法をおかしている。ルールは守らなければならない、なぜならルールは守られるべきものだからだ、というのは完全なループである。主張と理由の関係にはなっていない。しかし、多くの日本人がこのことを当たり前のように口にしたり、口にしなくても思ったりする。このとき、彼らは神を有している。そう、彼らにとって「ルール」は絶対的な神なのである。

 

いささか序論が長くなったが、僕が考える「神の概念」には、カントの「理性=超越論的自我」や、現代人の「ルール」信仰のように、それ自体は究極的には無根拠(か、あるいは根拠づけが失敗している、根拠づけが不合理である)なものである「絶対的概念物」を含んでいると考えられる。「絶対的」概念物と僕が呼ぶのは、まさに理性やルールといったものは究極的には無根拠のものであるのに、人々はそれだけにいっそう盲目的にそれに縋ったり信仰したりする、と思っているからである。ルールが大好きな店長、理性が大好きな道徳人間。そのような人々でこの世は溢れかえっているではないか。

 

 神=人が絶対的に無根拠に盲信するもの、という定式が僕の神の概念の一つの主張だ。この意味での神を考えると、依然として時代は「神は死んでいない」ことになるだろう。ニーチェが言ったのはあくまで西洋中心的な磁場の中での書きつけであることを思い起こそう。しかしニーチェが言ったことは現代の日本においても十分に思索するに当たるだけの重力を備えていることに変わりない。

 神は信仰の対象物である。そして、この「信仰」はいわゆる既存の「宗教」とは区別されるべきである。宗教はあくまでそれ自体自律した(完成された)世界観念、世界の体系的な説明を確立して、それぞれの信仰者の精神を安定もしくは不安定にさせている。もちろん中には理屈を深く考えずに盲信的に入信している人々もいよう。しかし、この疑似信仰こそを僕は批判したい。その批判作業が徹底して必要である。これはブログの記事であるため、今回はその批判作業はできないが、今後続けていくかもしれない。

 

 神、というか神の「代理物」としての絶対的概念物は現代において蔓延っている。例えばお金。お金こそ全てだ、世界はお金(資本)によって完璧に成り立っていると考えるのも立派な一つの世界観である。いみじくも19世紀のマルクスは「貨幣へのフェティシズム」や「貨幣をため込む人」=お金を使うのが勿体なら貯めるだけ貯めてヒステリーになっている人、などの分析をしている。それは現代においても続いているであろう。

 絶対的概念物はその内容がなんであってもいい。人がそれを盲信的に、無根拠に信じ込んでいることだけが条件である。その意味において「神は実在する」。僕はそう思う。

 

ただし、もちろん西洋的な神の概念が盛んに論じられていた西洋中世などと比べれば、この絶対的概念物=神の代理の時代は、大違いだ。そこにはまとまった聖典さえない。あるのは人々の欠落だけである。あるいは人間の人間としての退化、顛末、凋落、欠陥が肥大しているからこそ、このような「安易」な神の代理者が必要とされるのかもしれない。

 

 では、神の代理人がたくさん増えているのが今の現状だとして、これから先はどうなっていくであろうか。僕は逆説的だが、神の代理人(コピーされた神)が増えることによって、Originの神=理念、イデアはどんどん失われたと思っている。というか、その意味においてニーチェの「神は死んだ」は実に正しいのだ。コピーはコピーを呼び、起源である「ただ一人の神」は隠れてしまう(このただ一人の神、プラトン的なイデアという考え方も非常にアヤしいのだが)。最後に疑問が残るだろう。「ただ一人の神」って結局何さ?

 

 僕は、これが、理性・正義・愛・真理という四つ組の「フィロソフィア」だと今のところ思っている。たとえば、現代では特に市民生活の中で理性が失われ狂気が跋扈している。たとえば、政治の世界において正義の観念が完全に崩壊している。たとえば、イスラム国や核保有国の軍事台頭などによって、マザーテレサ的な世界愛の精神が失われている。最後に、フーコーが言うように、「真理は存在しない」。

 ところで、フィロソフィーという哲学の用語は、「知を愛する」という意味からきている。理性・正義・愛・真理の四つ組はのそれぞれのカテゴリーだと僕は考えている。究極的には、人間全体から「知」が失われようとしているのだ。知のカテゴリーである理性や愛だけではなく、その知の実体そのものが消去されようとしているのかもしれない。

 

 それに対して、現代の哲学はけっこう無力だと僕は思っている。やれ、人工知能の積極的可能性だの、人間の消滅だの、機械の時代だの、思想界隈は2010年代においてもけっこう盛り上がっている。刺激的な論考も多いし、議論自体は面白いのだが、

なんか浮ついているような気がしてならない。僕は人文主義者であるのかもしれない。実存主義人文主義など終わったと言われて久しい。だけど、僕が人間である以上、僕は人間の希望を考えていきたい。

(ひとまず了)