ダス・マンの宇宙(4)

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 ……今や白井青年は一種の勇気と好奇心を持って形象《宇宙クウカン》——と彼が名称の認諾を成し遂げたのだ! このことについてはまた後述されるだろう——の白い通路を進んでいった。どれほど進んだろうか……本当に此処は広かった。だだっぴろいのだ。そのくせ両側の壁は無言の圧力を厭らしいほどにかませてくる。もしも壁がじりじりと歩行者側に向かって動いてきたら、僕はいとも簡単に圧し潰され、鮮血が彩りを帯びる前にぐじょぐじょになって文字通り跡形もなくなるだろう、僕という存在は。そんなものだ、人間は。高い所から飛び降りるとすぐに死んでしまう。白井青年が脆い肉体を有するわけではなく、人間の躰がもともとひどく繊細なのだ。その中で白井青年はごく貧相な運動神経と体力しか持ち合わせていなかったということに過ぎない。大声を出し切ったことで喉はイガイガと多少傷むが、気持ちは晴れやかだった。しかし、こうもあたりが白いと空気まで透明でカチコチに凍っているかのようだ。音が無いのだ。白井青年がコンバースのシューズを履いて歩くカツカツ、いやコツコツか、その小さな足音だけが白井青年の耳に心地好く入ってくる。むしろこの小さな靴音はあたりの静寂を表象(強調)していると読み取るべきだろう。たとえば文学作品において、やたら静かな作品——それは文体の冷たさという関連したイメージを抱くだけでなく、文章中にも静けさを連想させる語彙や成句が紛れ込んでいたりするのだが——はいわゆる「行間」というものにおいて逆に語るものの甚大さを演出するように。無音に近い静寂。存在の喧騒はどこにもない。そういう意味ではこの形象《宇宙クウカン》と黒板に書かれていたところのこの場処は僕の自我空間なのかもしれない。僕は僕自身において彷徨している。それは存在の不在に向かって咆哮していることでもある、云々。そんなことを白井青年がつらつらと考えていると、どうも通路はずっと右に蛇行しているような感覚に陥った。一方通路なのだ。抜け道のようなものが無いかと一応目を張ってはいるのだが、そんなものもなく、基本的には変わり映えのしない景色がえいえんと。そうしてどれほど歩いただろうか……目印となるようなものが現れたのは。小さな本棚が壁に沿って申し訳程度にちょこんと置いてあった。ブラウン色に塗られた、ニスが輝く木製の三段ボックスだ。白井青年はもっと本棚に近づいてみた。というのは、その本棚は親近感のようなものを放っていたからである……白井青年の直感だ。三段の本棚には、文庫やハードカバーの本が無造作に並べられていた。ぎっしりと詰まっているというわけではなく、ところどころ隙間があって本が倒れ掛かっていたりする。そしてこれが肝要なのだが——一番上段の棚には、かつての「昨日」以前の白井青年が確かに読んでいたトルストイの『アンナ・カレーニナ』と、ジャック・デリダの入門書があったのだ! これには白井青年も驚いた。それはわざわざ目につくようなところに置いてあったわけだ。それは「昨日」以前の彼が読んだ版とおそらく全く同一のものであった……重たい二段組の世界文学全集シリーズの『アンナ・カレーニナ』。橙色の表紙が目に優しい、『デリダ 脱構築とグラマトロジー』と題目された小さな本。ただ違っていたのは、それらはまるで一度も読まれたことのないさらりとした新品の商品であるように見えるということだ。というのは、「昨日」以前の白井青年は時間をかけて『アンナ・カレーニナ』を読んだし、時間をかけてジャック・デリダの入門書を読んだ。それらのページには幾つか付箋も貼ったし、何より時間をかけて読んだという痕跡の感触が在るのだ。ところが白井青年の目の前にある二つの本は、どちらも白井青年のことなど全く感知していないかの如く、素知らぬ表情を浮かべていた。まったくもって綺麗なのだ。白井青年は試しに世界文学全集シリーズの『アンナ・カレーニナ』を手に取ってみた。重い。この二段組の本の重さは、あの時と全く同じである。それから頁を手繰ってみても、キティや、カレーニンの名前など、あの冬に夢中で読み続けたときにひたすら親しみを込めて記憶した名前が目に飛び込んで白井青年はしばし恍惚にも似た気持ちを味わった。それから『アンナ・カレーニナ』を本棚に戻して、今度はデリダの入門書をゆっくりと手に取った。埃一つかぶっていない。それから捲りやすいそれをパラパラと眺めてみると、パルマケイアー、散種、来たるべき民主主義など、デリダが自身の哲学書の中で織り上げた哲学上の概念の名前が記憶の洪水と共にづらづらと頭に浮かんだ。そのうちの一つ――おそらくデリダの哲学の中でも一番著名な概念である―――「差延」というものが白井青年の頭を強く打った。差延とはデリダの造語で、元々は「違い」「差異」を現わすフランス語のdifférencedifféranceともじったもので、「延長」の延の字と付いているのは日本語訳である。差延とは何か。簡潔に述べると、あるaという存在/存在者があるとして、そのa自身におけるズレのことである。つまり、自分は自分自身からつねにすでにズレているというあの文言……。自分は時間的にズレている。自分という中心性めいた絶対的なものは「存在しない」。自分はつねに揺れ動く、移動する。自分は勿論空間的にもズレている。在るのは「自分がそこに居た」という「痕跡」だけである……。ひとくちに言えば、「差延」という概念はそのようなことを示している。この項目を見た時、白井青年はこれだと思った。というのも、自分にはまだ「名前」が欠けていたからである。苗字の存在、名前の不在。白井自身からズレていく白井。これに名前を付けよう、今からお前は「白井サエン」と名乗るのだ! 白井サエン、の諸存在。こうしてかの長々しく実に不快でユーモラスな命名授与は遂に終わったのである。

 ……しかし、白井サエンはそのジャック・デリダの入門書を本棚に戻して、しばらく睨んでいた。彼がまだ読んだことのない本もそこにはあった……たとえばメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』。安部公房『カンガルー・ノート』。キルケゴール『死にいたる病』などの書籍がそこには並んでいた。そこで白井サエンは「世界の大思想」シリーズの『死にいたる病』を手にとり(それらも古本ながらに極めて綺麗な状態のものであった)、長い目次に驚きを覚えながら本論の冒頭はどこからだ、と探して回った。

 「人間とは精神である。精神とは何であるか。精神とは自己である。自己とは何であるか。自己とは自己自身にかかわる一つの関係である。いいかえればこの関係のうちには、関係がそれ自身にかかわるということがふくまれている。したがってそれはただの関係ではなくて、関係がそれ自身にかかわることである。」(松浪信三郎訳)

関係がそれ自身にかかわる、云々。少なくともこの段落を白井サエンは三回目で追ってみた。それでもさっぱり分からなかった。しかし、そこには分からないことの奥にある、安易なる理解を簡単には受け入れない著者に対する挑戦意欲のようなものが芽生えていて、しかもそれをキルケゴールは「絶望が死にいたる病である」というテーマにおいて積極的に望んでいることのように白井サエンは思ったのである。「人間は精神である……」の下りの前には、章句でこう書きつけてあった。「A 絶望は精神における病、自己における病であり、それには三つの場合がありうる。絶望のうちにあって自己をもっているということを意識していない場合(非本来的な絶望)。絶望して自己自身であろうと欲しない場合。絶望して自己自身であろうと欲する場合」と。これはキルケゴールによる実に本質的なる絶望の形態の類型論だ。そこで改めて本論の冒頭を読み返し、特にこの「自己とは自己自身にかかわる一つの関係である」というセンテンスがかなり意味を取りにくくしているということに気付いた。精神、自己、関係。自己は、自己自身にかかわる一つの関係である、云々。これも「差延」の概念に近い、「自己」の内なる分裂をアプリオリに想定した考えであろうか。積極的、主体的、いわば「超自我的」な自己がいて、もう一方の受動的、被抑圧的な自己に対して「関わっていく」この現象こそが「自己」でおこなわれる諸運動の全てだ、というような態度表明だろうか。いずれにしても、この本は必ず読まなければ、と白井サエンは思って、しかしそこで本を閉じた。いつかこの本に取り組める時が来るのだろうか? この非常事態のような状況においてはそれも難しいかもしれない。さて、しかしなぜ本棚が無造作にぽんと置かれているのだろう……白井サエンはいつしか、自分が本を眺めている間は、それが読んでいるものであっても読んでいないものであっても、幾分か気が紛れて幸せな気持ちになるという事を発見した。それは実に明快な発見であった。書籍や文字を見るとごく自然にリラックスできるのだ。しかしその愉悦なるミュゼアムはあまりに仕入れ数が少なかった。試しに本棚の裏も動かしてみた(それほど重くもない)。しかしそこには相変わらずツルツルに磨かれた白タイルがあるだけで、本棚はつい今しがたここに置かれたとでもいわんばかりの様相であった。抜け穴のようなものも無い。白井サエンは溜息を吐いて、しかしやがてその場を離れることにした。