ダス・マンの宇宙(2)

 

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(2)

 

 そもそも私たちの白井サエンは「昨日」よりも遥かに大事で危険なものを喪失していた、そのことに彼はまだ気付いてもいなかった。そう、私たちが《白井サエン》と一方的に彼のことを呼称しているだけで、彼自身は自分が何者であるか——灰色のパーカーに描かれたDas Manの文字はそのヒントの一つだとはいえ——を本当の意味でよく分かっていなかった。ちなみに話者であるこの私は、唯名論はおおむね正しいと思う。ただし、私が理解した上での独自の唯名論もどきをちょっとここで展開しておきたい。つまり、世界は概念から成っており、というのは概念に付された名前がその全ての本質や様態を包み込んでいるのだ。一切は名前である。というのは、名前からあらゆるものが演繹されるからだ。一匹の犬、チワワも、まず《チワワ》という名称が人間社会の中で規定されることによってそれとして捉えられ、《チワワ》は「小型犬」で「メキシコに由来する犬種」で「臆病な性格の持ち主」である、エトセトラ……という一般項が徐々に形成されてくる。実在界をおおいに度外視すれば、やはり一切は概念とその名前なのである。概念規定が、人間の知解可能な範囲においては、全ての物事を合理的に説明してくれる術なのだ。さて、白井サエンの話に戻ろう。今、白井サエンが「昨日」のことをよく思い出せなかったりその他の記憶が混濁していたり、形象《宇宙クウカン》の態勢=体制にまだ馴染めずに困惑しているのは、すなわち彼が出発点となる自己把握をできずにいるからなのだ。あらゆる物事は自己と結び付けることによってその関係性を確かなものにする。白井サエン——実を言うと、今の時点では丸井クリステヴァと同じくまったくの仮名にすぎないのだ!——は自身の名前が存在しないことに気付いていない。名前の不在はそれだけで恐ろしい。彼はどうなるか。まだ、チュッパ・チャップスの包み紙を大切そうに持ち歩いている白井サエンは、白井サエンという形象《宇宙クウカン》での別なるコード——規定、概念規定——の存在に気付いていない。それはこれから獲得されるものである。彼はまだ名を持たぬ青年なのだ。ナナシノ白井である。次なる過程は、ナナシノ白井がどうやって私たちの白井サエンへと相成っていくかを監視していくことになろう。今、男はチュッパ・チャップスの包み紙を大事そうに抱えている。したがって、呼び名はまたもや変更されることになるが、チュッパ・マンとしておこう。これまた概念規定である。チュッパチャップスマン(短くするとチュッパ・マン)は灰色のパーカーを着たまま、あてどなく辺りを見廻した。(まだ名前の喪失には本質的に気付いていない模様)チュッパ・マンは仕方ない、と溜息をつき、コンバースのシューズの爪先で床をとんとんとたたいてその実在感にげんなりしながら、少し体を動かした。倒れていた時間が長かったのか、ひどく背中が傷んだ。体がバキバキで、チュッパ・マンは少し準備体操の運動をすることにした。体を伸ばしていると、あちこちが戻ってきたような感覚に囚われた。これは僕の……実在感、リアルな感触だ、それがこの「身体」に戻ってきている、という……。ところでチュッパ・マン、もとい白井サエンへと変成する男の躰は貧相だった。彼は学校でも帰宅部だった。学校の成績はいいほうだった。それで肉体上のあたたかい母親は大手の塾に行くことをこのチュッパ・マンに示して、彼はそれに同意した。高校一年の春のことである。チュッパ・マンはなんとなく、自分は記憶障害になる直前、高校二年生だったんじゃないか、と思えてくる。なぜなら、高校二年になって塾でのお気に入りの英語の先生が変わってしまって、実にくだらなく怠惰で睡情ばかりのさばらせる様な詰まらない先生に変わってしまったことを覚えているからだ。あの先生はどうしようもない。丸井クリステヴァも同意していたはずだ。そうだ、丸井クリステヴァはどうしているだろう。この白色の世界——形象《宇宙クウカン》のことだが——の何処かに僕と同じようにして彷徨っているとでもいうのだろうか? 思い出はたびたび蘇ってくるみたいだ。ならばそんなに性急に慌てなくてもいい。徐々に、時間が解決してくれるだろう、とその時のチュッパ・マンは思った。話を戻すと、チュッパ・マンの躰は実に貧相なものであった。躰が貧しいことに対して、彼は平時から一種の羞恥心をおぼえていた。丸井クリステヴァは、学生ながらに、豊満で充実した「肉体」を有しているのだった。たしかにそれはチュッパ・マンの欲望を掻き立てドライヴさせるのにとっておきの対象でもあったのだが、もしかしたらチュッパ・マンは本当に心の底から丸井クリステヴァの充満した肉体そのものに憧れていたのかもしれない。肉欲そのものについては後に記述される。チュッパ・マンは一通りの準備体操を終え、いくぶん晴れがましい気持ちにさえなった。そこで、とりあえずこの不可解な建設物をしばらく歩いてみよう、という気になった。

 さきほども言ったように、形象《宇宙クウカン》の建物は全て白い。天井だけが、ゆったりとした黒線が碁盤の目状に引かれている。それ以外の壁や床の白さは、完璧なショッピングモール空間のそれを思わせる。ショッピングモール。チュッパ・マンは、この監獄=ショッピングモール(ショッピングモールは監獄ではないが、「監視」カメラなら何台も馬鹿のように設置されているという点では監視システムの一つでもありそうだ)の迷路を彷徨するにつけ、彼が「前世」で見た各地のショッピングモールとそれらにまつわる思い出が蘇ってくることになった。なぜなら彼の彷徨の主目的は過去を恢復することでもあったから。奪取された「昨日」、そして「昨日」の連なりを。とりあえずそれは先の事だろう。形象《宇宙クウカン》は厳密には通路になっていた。どこへ続くか分からない通路だ。とにかく、右の壁があって、左の壁があって、上には天井、下には床があり、進むのは前か後ろかの二択しかない。ためしにチュッパ・マンは天井を除く全ての白いタイルを触ってみたり、軽く手の甲で叩いてみたりした。天井はとても手が届かない高さにあった。そう、形象《宇宙クウカン》は広大なスペイスなのだ。そのことを知る由もないチュッパ・マンは、自身が寝起きの時に目に飛び込んでくる視覚の情報が最優先され、天井の高さなどは考慮されていなかったのだな、人は下から景色を見上げる時に高さを意識しにくいものなのだろうか。とにかく、天井の高さだけで軽く十メートルはありそうだった。この事実はチュッパ・マンをゆっくりと青ざめさせていた。いうなれば、こんなだだっぴろくて薄気味悪い空間に、自分一人しかいないのだ。チュッパ・マンは思わず「あー!!!」と声をあげた。音は壁をつたってすぐに跳ね返される。反響があるのだ。チュッパ・マンはもっと声をあげた。あー!!!あーーーーあーーー!!!!あーーー!!!!あああああああ!!!!が――――――――――ガガガががっがあああああああああああ!!! さすがに声が限界になり、むせてきてチュッパ・マンは咳をひとつふたつした。声は反響する……天井を、壁を、床を伝って——。この空間はだいぶ広いみたいだ、とチュッパ・マンは今回初めての発見をした。

  • この白いだけの空間は、だいぶ広い。

そのセンテンスを頭の中で幾度か反芻した。しかし、だいぶ大きな声を出したことでチュッパ・マンは薄ら気味の悪い恐怖に捕まれていた気色から半ば解放された。しかしと思う。今の声は本当に僕の躰から出た声だろうか? 自分にしてはものすごく大きな音量だった、快活な力が一気に放出されているようにも思われた。欲求不満だったのか? 彼はどちらかと言うと歌が上手い方ではなく、得意の音楽の授業ではピアノもギターも弾けるのにこの生の自己の歌声だけは嫌っていた。歌が上手に詠える友人やシンガーをどれほど羨ましく思ったことだろう。だがさきほどの発声でチュッパ・マンは気付いた。歌が上手い人は、とりもなおさずみな声量が備わっているということだ。歌というのは、一種の音圧を呼吸にのせてあたりに発散すること。とすれば、呼吸や発声の練習は、たとえばサッカー選手にとってのドリブル練習のように、当たり前の基礎練習なのだろう。チュッパ・マンは自分の歌声が恥ずかしくて、音楽の授業では小さな声で、できれば歌わないで済ませていた。そのことを歌が上手な丸井クリステヴァから優しくからかわれたりもしたものだ。少しだけ自分の歌(ダミ声だったので音質はなんともいえないが)に対する視線が変わって男は気持ちのいいものをおぼえた。形象《宇宙クウカン》は本当に広かった。さきほどからチュッパ・マンは歩いていた。すると、分かったことに、通路(壁にさえぎられたタイル床)は進行方向から見て少しずつ右に逸れているようだった。全体があまりに巨大すぎてそうとは気付けないほど徐々に、ということなのかもしれない。しかし、僕が右に曲がっているのは確かだ。というのも、チュッパ・マンは自分が最初倒れていたところを賢明にも《スタート地点》と考えて、チュッパ・チャップスの包み紙をそっと置いておいたからである。そして、通路を少し進行したところでまた帰ってみた。チュッパ・チャップスの包み紙は元の位置にあった。相変わらず「ハワイアン味」と書いてある。私たちの暫定的な使用である「チュッパ・マン」の呼称もこれで終わりだ。彼は相変わらず「Das Man」のパーカーを着ているし(そこに描かれたラフな人物スケッチは実に悩ましげなポーズを決めているが)、水色のハワイアン味は確かに好物だという事も十分すぎるくらい思い出したので、これからしばし暫定的に(また!)、この男の事をダス・ハワイアンとでも呼ぼうか。ハワイアンマンでは何だかチュッパ・マンと被って面白くないし、ダス・ハワイアンなら面倒なときも「ハワイアン」と短縮して呼ぶことができる。とにかく、ダス・ハワイアンはチュッパ・チャップスの包み紙を床に置いてマークした。《スタート地点》は恒久的にそこにあり、かつそこから通路をつたって前に進んでいくと、やがて右の方向=彷徨にうつっていくことが分かったのである。そこから彼の絶え間ない実験と観察がはじまったのであった。

 

 

(3)に続く