ダス・マンの宇宙(3)

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(3)

 

 

 ダス・ハワイアンはとりあえず進んでいった。すると、おもむろに通路自体が右へと向き始めた。通路の構造が一瞬のうちに変化したとは考えられないから、この通路はスタート地点から見た場合には右に蛇行しているのだろう。彼はまた再度の猜疑心に囚われながらも確実に通路を進んでいった。相変わらず天井は高く、壁はどこもピカピカに磨かれていた。通路の幅はだいたい五メートルといったところだった。天井に対して細長いことが分かった。それにしてもたくさん歩くことだ。スタート地点に特に未練はないが、なんとなく最初に倒れていた場所を大切にした方がよいのではないかと言う安易な発想がダス・ハワイアンを苦しめた。何分歩き続けただろうか。ふと、変化の兆しが現れた。待望の変化の兆しだ。というのも、右手にある壁の目の高さのところに一つの不可思議な看板があった。それは、看板というか、実際の所黒板であった。黒板の四角のフレームは金ぴかの塗装がしてあって、それはどうにもへんちくりんな雰囲気を漂わせていた。そして何よりダス・ハワイアンがびっくりしたのは、黒板に大きく

               形象《宇宙クウカン》

と書かれていたのだ。ここで私たちはようやくこの男が迷い込んでいるスペイスのことを「形象《宇宙クウカン》」と呼んでもいいらしいことが分かる。しかし、このダス・ハワイアンにとってはそうではない。今彼は混乱していた。形象《宇宙クウカン》? クウカンはなぜカタカナなんだろう、空間のことか、はたまた空閑のことか? しかし、最初に宇宙とあるから「宇宙空間」の読みで正しそうだ。しかし、形象とは? フィギール? 形? どういうことだろう、この建築物の形のことだろうか。そんなことは序盤のダス・ハワイアンには全く予想もつかないというか、彼は探求=彷徨をまだ始めたばかりだったのだ。ダス・ハワイアンはしばらくこの拍子抜けした黒板(学校の授業で使われている通常の黒板と同じサイズ)と文字を眺めていた。この空間の名前が、「形象《宇宙クウカン》」ということでよいのだろうか? ——そうだ、よくできた、ダス・ハワイアン、もとい白井サエンよ。正解だ。しかし……それからダス・ハワイアンは、黒板の下の溝のところに何本かのチョークがあることに気が付いた。彼は恐る恐る黒板に近づき、猜疑心を抱きながらも、チョークを手に取ってみた。全部で五本ある。みな色が違って、通常の白と赤、黄色に、水色と橙色まであった。水色のチョークを見るのは初めてかもしれない。それにしても、この「形象《宇宙クウカン》」という文字は、何で書かれているのだろう。これは金属だろうか。見たところ、黒板の真ん中を金属か何かで固めたようにがっしりとした素材でそれらは作られているようだった。この黒板は使えるのだろうか。ためしにダス・ハワイアンは水色のチョーク——それらは長さもまちまちだった。白色のチョークは一番擦り切れていて、赤のチョークも使いさしだった。黄色のそれも同じだ。橙色のチョークは使ってなかったようだが水色のチョークに比べて少しだけ短いようだった。水色のチョークが一番長かった。長すぎるくらいだ。ダス・ハワイアンは「前世」においてそんなに長い間チョークをじっと見続けたことは無い。ただ、掃除当番で黒板掃除をするときなどにチョークの色味を見ては、なんとなくだがこっそり口の中に含んでみたくなるような、そんな柔らかさを前白井サエンは感じていた。——を持って、黒板の隅っこで祈るようにおそるおそるチョークを引いてみた。

   しろい

書いた後でダス・ハワイアンという男は笑ってしまった。水色のチョークで「しろい」と書くとは。そしてこの時ダス・ハワイアンは悟ったのである、そう、自分には確固たる名前が無い、と——。「前世」、すなわち「昨日」を含んだ一か月前後の記憶障害にあっている。それまでの世界は憶えていたはずだ。しかし……自分の名前は一体なんだったのだろう? 日本人という事は明らかな事実だ(事実でなくとも、事実への強い信仰があればいいと半ば開き直りぎみのダス・ハワイアンであった)。なのに、苗字も思い出せない。しからずんば個体に固有の名前や? 自分は何と名乗っていたのだろう。どういう名前で生活をしていたのだろう。冷静になって、全く思い出せない。鎌田由伸か? 浜本祐介? 堀田直樹? スズキ・イチロー? ジョー=ウィルフィード・ツォンガ? 全く思い出せない。どれも自分のものとしてしっくりこない。しかしダス・ハワイアンは決して混乱などしていなかった。もう何が起きても変じゃないのだ。僕は先ほど、苦手だった大声の発声を久しぶりに快活にやり遂げることができた。大声と言うよりただの奇声だったのかもしれないが、その声を聞きつけて不快そうな顔つきをしてくる他人も居ないし、しばらくは多分僕一人だろう。僕はここに適応し始めている、とても不思議な仕方で。そして——僕は完璧な長さの水色のチョークで書いた「しろい」という文字がとても気に入った。黒板でチョークを引くのはとても気持ちいい。だけど今はそれ以上何も書かなかった。ダス・ハワイアンは水色のチョークを元に戻し、黒板から決して貧しくない躰を離した。形象《宇宙クウカン》という文字は厳然として聳え立っている。僕に何かを告げるようで——。ならば、この空間は今より「形象《宇宙クウカン》と呼称されるべきであり、そして、そして、僕の苗字は今日から「白井」だ。僕は白井として生きていこう。たとえこの空間での《生活》がどれほどのものとなるかは分からない、すぐに終わるかもしれないしこの心地好い悪夢に似た状況は半永久的に続いていくのかもしれないが、僕は白井として、白井としてこのスペイスに留まろう。僕は白井としてこの通路を探求する。僕は白井としてスタート地点をマークする。まずは抜け道を探すことだ、スタート地点には戻れないかもしれない。そのことはダス・ハワイアン、いや失敬、「白井」青年を不安にさせた。もうあのゴミ屑も同然の、水色の包装紙であるハワイアン味のチュッパ・チャップスの文字を見ることは無いだろう。僕は白井として、前に進んでいこう。

 

(4)につづく