神の回帰、あらゆるものが崩壊する時代に②

  20世紀の文化人類学者のレヴィ=ストロースは主著の一つである『悲しき熱帯』においてこんなことを書きつけている。曰く、「世界は人間なしにはじまったし、人間なしで終わるだろう。」この言葉ほど重いものはない。脱人間中心主義的な現代の思想の予見であったし、実際現代の思想状況は「人間なしで」の思考に傾きつつある(その意義はともかくとして)。

 

 また、フーコーも『言葉と物』でこのようなことを書きつけている。「人間もまた砂上の塵のように消えていくであろう……」 

 

フーコーレヴィ=ストロースの言葉は共鳴しあっている。前回記事の僕の主張では、人間は知全般を、原理的に失いつつあるという言葉で締めくくった。

 

理性が崩壊している。正義が欠けている。愛が無い(足りないでもよい)。真理・真実というものはない。

僕はひとまずユマニスム(人文主義)と実存主義サルトル)の立場をとろう。人間学である。その立場から考える場合、「知」は人間の本質である、と僕は言いたい。ではその「知」とは何か。単なる知識のことか。そうではない。

 知識は、言葉と密接に絡んでいる。人間は言葉を話す動物だとはよく言われる哲学の箴言である。知識は言葉の操作によって獲得される。しかし、知識を得ることだけが人間の活動ではない。

 知を有するものとしての人間。それはどういうことか。理性主義者であれば人間、というわけではまったくない。むしろ非理性、たとえば狂気や非行といった属性を持つ人間の立場にも積極的に肯定していくのがサルトルという人間であったはずである。

 理性・正義・愛・真理の四つ組が「知」であると言いながら、このへんをまだうまく言語化できていないので、少し話の方向を変える。

 

僕は今、パキスタンの作家であるムハンマド・イクバールの『ムーサーの一撃』という詩集を読んでいる。

 

アジアの現代文芸 パキスタン10 ムーサーの一撃

アジアの現代文芸 パキスタン10 ムーサーの一撃

 

 

イスラム圏内においては「強い」信仰者が多いことは周知だ。信仰は現代においてもまだ根強く続いている。イクバールもそのうちの一人だ。ムハンマドを崇め、アッラーの神を信仰している。そのことはその素朴で情熱的な字句からも長句的にまで伝わってくる。では、「強い」信仰の内部にいる人の声は、僕みたいな無宗教の読者にもきちんと伝わるのだろうか? これはよく分からないが、僕は少なくともイクバールの詩を読んでいて、どんな苦悩が描かれているかを想像する。多分、詩人は神と人間の間の揺れ動きに苦しんでいる。強い信仰にあり、絶対的な神の信仰の下に生きながら、彼はそれでも「人間」としての生活、社会活動、政治までを広く見渡す。宗教はここにいたっては個人の魂を救う領域にとどまらないのだ。

 前記事での「宗教」や「信仰」という言い方は、赤毛のアンが毎晩寝室で神様に祈りを捧げるように、個人の領域において自身の魂の「救済」のために行われる活動を中心とするものとして僕は書いていたが、宗教は人類全体の希求ももちろん含んでいる。キリスト教はそのような経緯が強い。宗教は集団的なのだ。その意味で宗教は政治なのである。スラヴォイ・ジジェクは「宗教が政治なのではない。政治が宗教なのだ」というパラドックスを『絶望する勇気』の中で書きつけているが、これは「宗教が政治である」ことを特に否認しているわけではなかろう。むしろ、宗教=政治 の概念を示唆しているのである。宗教が個人の救済にとどまらず複数の人間(共同体)につきものの現象である限り、宗教は政治であらざるを得ないし、逆に政治も宗教的なのである。昨今の政治現象は近代以降に現れた国家現象に過ぎない。

 

ところでイクバールは先ほども書いた通り、詩作の中で、神への信仰と人間社会へのいら立ちの間で揺れ動くさまをストレートに表現している。葛藤状態。彼はそれほどまでに、「実存主義的」に生きているに違いないのだ。宗教の内部にありながらなお、実存主義を生きている。実存主義と宗教は無関係どころか、強い関係で結びついている。それは「人間の人間への信仰」なのかもしれない。

 

 しかし、僕は盲目は避ける。人間は人間に期待してよい。しかし、過度な期待は、自己中心的にすぎない。ナルシシズム、現状肯定主義に陥る危険性を胚胎する。人間の、人類への信仰。これをどう考えるか。神学と実存主義はそこにかかっている。

 中世の神学は、基本的に人間の(神への)従属的な立場を説いた。実際には教会があまりに人間的にすぎる権威を持って政治システムを作っただけのことであるが、ともかく理論的には、中世においては人間の主体性は重視されていない。近世のデカルト主義などの精神においても、まだ「神優位」の発想は薄く残っている。まだ神は生きている。

 

 僕はイクバールの情熱的な詩を読みながら思う。「神ありでも、現代の人間はやっていける。神がいても、いなくても、どのみち人間の人間に対する信仰をこそ批判するべきなのだ」と。その意味で、人間批判を人間解体にまで進めていく現代思想の状況は多少危険なところもあるが、人間批判のために哲学はあるべきである。僕は「批判精神」をこそ、僕の絶対的な信仰対象としよう。僕はデカルト主義者でもある。デカルトの何を信仰しているか。デカルトの方法的懐疑の精神である。どこまでも目の前にある事物や常識であることをとりあえず疑ってみること。これこそが、人間の特徴なのではなかろうか。人間の人間たる所以は、方法的懐疑=批判精神にこそあるべきなのではないか。

 

次回に続く。

神の回帰、あらゆるものが崩壊する時代に(エッセイ)

■神の回帰、あらゆるものが崩壊する時代に

 

神は死んだ」というニーチェ箴言は、キリスト教の文化を地盤としたヨーロッパ大陸諸国にとってこそショックだった。日本は西洋ではないし、現代にいたっては無宗教の人々が一番多く、せいぜい「神は死んだ」という言葉はファッション感覚で用いられるに過ぎない。

 

 ところで、神に願掛けするとか、神頼みとか、ゲン担ぎとか、そういうことを口にしたり思ったりしたことはあるだろうか? 一回もそういうことをしなかった人はいるだろうか。僕は無宗教の人だ。実家は天台宗らしいが、儀式として流れに沿って葬列に参加したりしているだけで、精神的にはまったくの無宗教といっていい(手塚治虫の影響で仏教的な考えにはものすごく影響を受けているけど)。

 

  さて、原理的な思考をしてみたい。西洋的な「神」の概念は何だろうか、という問いを考えてみる。

 まさか、近代以降にあって、神が実在のものとして「存在」すると思っている人々はかなり少数であったろう。むしろ神は信仰の対象であったろう。モンゴメリの小説『赤毛のアン』の主人公のアンが毎晩神様に向かって祈りを捧げるように、それはより精神的な存在であったろう。

 それでは信仰の対象である「精神的な存在」とは何だろう? 精神的な存在としての神とは、具体的にはなんであろう? このことを深く考えてみると、実はかなり曖昧、人々によって答えは千差万別のようにならないだろうか? 第一に、神といってもどんな姿形をしているか分からない。第二に、それは人間に似ているのかそれとも動物に似ているのかもわからない。第三 この世の地球の存在者と同一の存在であるのかもわからない。このうち第三の点が厄介である。

 話が少しややこしくなるが、ハイデガーは20世紀の哲学において、「これまでの哲学者は、人や動物や石ころは当たり前のように存在したり死んだりして消えると思ったり考えているが、では実際のところ存在の仕方を真剣に思考した者はアリストテレス以降居なかった」と思索した人である。そう、存在者である人間や動物については哲学上の議論が深化していったが、肝心の「ではどのように存在者は存在しているか」という原理的な思考を忘れていたのではないか、と。このことは、カント以後の認識論的転回を批判している。カントの認識論の重大な問題の一つは、おそらくこうであろう。認識者は世界を自身の眼鏡のフレームのようなもの、フィルターのようなものに掛けて認識している。そこから、カント以後の哲学観では、「素朴な世界(目の前に机がある、遠くに一本の樹木が立っている」が目の前に広がっているのではなく、目の前の木目調の机が陽光に照らされて私の目に入ってくる、だからといってその机はほかの人やほかの時間帯によっては見え方=現象の仕方が変わる」といった風に共通見解が変わったのである。ハイデガーはこのような認識論、認識者の捉え方によって世界が実在しているという議論を斥けたのだ。ではどのように斥けたのだろうか?

 主体が世界を認識するとき、それでは主体はどのように存在しているのだろうか? カントはこの答えの究極の根拠として、「理性」を持ち出した。理性は超越論的自我とも呼ばれる。この超越論的自我というのが確かに人間には備わっていて、超越論的自我によって世界は実在したり、人間は判断を下したり、知識を獲得したりするのである、云々。僕の考えでは、カントはこの時ほんの少しばかり「神の概念」を持ち出していると思う。ハイデガーもきっと同じようなことに瞬時に気が付いていたのではないだろうか。というのは、超越論的自我=理性というものは確かに「存在」=実在しているんだ、なぜならば…… カントはこの「なぜならば~」の理由提示をしているのだろうが、僕は残念ながらカントの主著『純粋理性批判』を最後まで読んでいない。しかし、超越論的自我が実在するということに対する明確な根拠提示には、カントは失敗しているのではないかというのが僕の推測だ。カントは「究極の根本理由」を持ち出している。究極の根本理由は、わかりやすい例でいうと「ルール」である。

 

 日本人はよく、「ルールはルールだから(絶対に守れ)」と言うことがある。ルール(規則)は何が何でも守らなければならない、なぜならそれは守らないといけないものだからだ、だからあなたも私もルールを守るのだ、というスゴみを帯びた白痴的三段論法をおかしている。ルールは守らなければならない、なぜならルールは守られるべきものだからだ、というのは完全なループである。主張と理由の関係にはなっていない。しかし、多くの日本人がこのことを当たり前のように口にしたり、口にしなくても思ったりする。このとき、彼らは神を有している。そう、彼らにとって「ルール」は絶対的な神なのである。

 

いささか序論が長くなったが、僕が考える「神の概念」には、カントの「理性=超越論的自我」や、現代人の「ルール」信仰のように、それ自体は究極的には無根拠(か、あるいは根拠づけが失敗している、根拠づけが不合理である)なものである「絶対的概念物」を含んでいると考えられる。「絶対的」概念物と僕が呼ぶのは、まさに理性やルールといったものは究極的には無根拠のものであるのに、人々はそれだけにいっそう盲目的にそれに縋ったり信仰したりする、と思っているからである。ルールが大好きな店長、理性が大好きな道徳人間。そのような人々でこの世は溢れかえっているではないか。

 

 神=人が絶対的に無根拠に盲信するもの、という定式が僕の神の概念の一つの主張だ。この意味での神を考えると、依然として時代は「神は死んでいない」ことになるだろう。ニーチェが言ったのはあくまで西洋中心的な磁場の中での書きつけであることを思い起こそう。しかしニーチェが言ったことは現代の日本においても十分に思索するに当たるだけの重力を備えていることに変わりない。

 神は信仰の対象物である。そして、この「信仰」はいわゆる既存の「宗教」とは区別されるべきである。宗教はあくまでそれ自体自律した(完成された)世界観念、世界の体系的な説明を確立して、それぞれの信仰者の精神を安定もしくは不安定にさせている。もちろん中には理屈を深く考えずに盲信的に入信している人々もいよう。しかし、この疑似信仰こそを僕は批判したい。その批判作業が徹底して必要である。これはブログの記事であるため、今回はその批判作業はできないが、今後続けていくかもしれない。

 

 神、というか神の「代理物」としての絶対的概念物は現代において蔓延っている。例えばお金。お金こそ全てだ、世界はお金(資本)によって完璧に成り立っていると考えるのも立派な一つの世界観である。いみじくも19世紀のマルクスは「貨幣へのフェティシズム」や「貨幣をため込む人」=お金を使うのが勿体なら貯めるだけ貯めてヒステリーになっている人、などの分析をしている。それは現代においても続いているであろう。

 絶対的概念物はその内容がなんであってもいい。人がそれを盲信的に、無根拠に信じ込んでいることだけが条件である。その意味において「神は実在する」。僕はそう思う。

 

ただし、もちろん西洋的な神の概念が盛んに論じられていた西洋中世などと比べれば、この絶対的概念物=神の代理の時代は、大違いだ。そこにはまとまった聖典さえない。あるのは人々の欠落だけである。あるいは人間の人間としての退化、顛末、凋落、欠陥が肥大しているからこそ、このような「安易」な神の代理者が必要とされるのかもしれない。

 

 では、神の代理人がたくさん増えているのが今の現状だとして、これから先はどうなっていくであろうか。僕は逆説的だが、神の代理人(コピーされた神)が増えることによって、Originの神=理念、イデアはどんどん失われたと思っている。というか、その意味においてニーチェの「神は死んだ」は実に正しいのだ。コピーはコピーを呼び、起源である「ただ一人の神」は隠れてしまう(このただ一人の神、プラトン的なイデアという考え方も非常にアヤしいのだが)。最後に疑問が残るだろう。「ただ一人の神」って結局何さ?

 

 僕は、これが、理性・正義・愛・真理という四つ組の「フィロソフィア」だと今のところ思っている。たとえば、現代では特に市民生活の中で理性が失われ狂気が跋扈している。たとえば、政治の世界において正義の観念が完全に崩壊している。たとえば、イスラム国や核保有国の軍事台頭などによって、マザーテレサ的な世界愛の精神が失われている。最後に、フーコーが言うように、「真理は存在しない」。

 ところで、フィロソフィーという哲学の用語は、「知を愛する」という意味からきている。理性・正義・愛・真理の四つ組はのそれぞれのカテゴリーだと僕は考えている。究極的には、人間全体から「知」が失われようとしているのだ。知のカテゴリーである理性や愛だけではなく、その知の実体そのものが消去されようとしているのかもしれない。

 

 それに対して、現代の哲学はけっこう無力だと僕は思っている。やれ、人工知能の積極的可能性だの、人間の消滅だの、機械の時代だの、思想界隈は2010年代においてもけっこう盛り上がっている。刺激的な論考も多いし、議論自体は面白いのだが、

なんか浮ついているような気がしてならない。僕は人文主義者であるのかもしれない。実存主義人文主義など終わったと言われて久しい。だけど、僕が人間である以上、僕は人間の希望を考えていきたい。

(ひとまず了)

ダス・マンの宇宙(4)

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***

 

 

 ……今や白井青年は一種の勇気と好奇心を持って形象《宇宙クウカン》——と彼が名称の認諾を成し遂げたのだ! このことについてはまた後述されるだろう——の白い通路を進んでいった。どれほど進んだろうか……本当に此処は広かった。だだっぴろいのだ。そのくせ両側の壁は無言の圧力を厭らしいほどにかませてくる。もしも壁がじりじりと歩行者側に向かって動いてきたら、僕はいとも簡単に圧し潰され、鮮血が彩りを帯びる前にぐじょぐじょになって文字通り跡形もなくなるだろう、僕という存在は。そんなものだ、人間は。高い所から飛び降りるとすぐに死んでしまう。白井青年が脆い肉体を有するわけではなく、人間の躰がもともとひどく繊細なのだ。その中で白井青年はごく貧相な運動神経と体力しか持ち合わせていなかったということに過ぎない。大声を出し切ったことで喉はイガイガと多少傷むが、気持ちは晴れやかだった。しかし、こうもあたりが白いと空気まで透明でカチコチに凍っているかのようだ。音が無いのだ。白井青年がコンバースのシューズを履いて歩くカツカツ、いやコツコツか、その小さな足音だけが白井青年の耳に心地好く入ってくる。むしろこの小さな靴音はあたりの静寂を表象(強調)していると読み取るべきだろう。たとえば文学作品において、やたら静かな作品——それは文体の冷たさという関連したイメージを抱くだけでなく、文章中にも静けさを連想させる語彙や成句が紛れ込んでいたりするのだが——はいわゆる「行間」というものにおいて逆に語るものの甚大さを演出するように。無音に近い静寂。存在の喧騒はどこにもない。そういう意味ではこの形象《宇宙クウカン》と黒板に書かれていたところのこの場処は僕の自我空間なのかもしれない。僕は僕自身において彷徨している。それは存在の不在に向かって咆哮していることでもある、云々。そんなことを白井青年がつらつらと考えていると、どうも通路はずっと右に蛇行しているような感覚に陥った。一方通路なのだ。抜け道のようなものが無いかと一応目を張ってはいるのだが、そんなものもなく、基本的には変わり映えのしない景色がえいえんと。そうしてどれほど歩いただろうか……目印となるようなものが現れたのは。小さな本棚が壁に沿って申し訳程度にちょこんと置いてあった。ブラウン色に塗られた、ニスが輝く木製の三段ボックスだ。白井青年はもっと本棚に近づいてみた。というのは、その本棚は親近感のようなものを放っていたからである……白井青年の直感だ。三段の本棚には、文庫やハードカバーの本が無造作に並べられていた。ぎっしりと詰まっているというわけではなく、ところどころ隙間があって本が倒れ掛かっていたりする。そしてこれが肝要なのだが——一番上段の棚には、かつての「昨日」以前の白井青年が確かに読んでいたトルストイの『アンナ・カレーニナ』と、ジャック・デリダの入門書があったのだ! これには白井青年も驚いた。それはわざわざ目につくようなところに置いてあったわけだ。それは「昨日」以前の彼が読んだ版とおそらく全く同一のものであった……重たい二段組の世界文学全集シリーズの『アンナ・カレーニナ』。橙色の表紙が目に優しい、『デリダ 脱構築とグラマトロジー』と題目された小さな本。ただ違っていたのは、それらはまるで一度も読まれたことのないさらりとした新品の商品であるように見えるということだ。というのは、「昨日」以前の白井青年は時間をかけて『アンナ・カレーニナ』を読んだし、時間をかけてジャック・デリダの入門書を読んだ。それらのページには幾つか付箋も貼ったし、何より時間をかけて読んだという痕跡の感触が在るのだ。ところが白井青年の目の前にある二つの本は、どちらも白井青年のことなど全く感知していないかの如く、素知らぬ表情を浮かべていた。まったくもって綺麗なのだ。白井青年は試しに世界文学全集シリーズの『アンナ・カレーニナ』を手に取ってみた。重い。この二段組の本の重さは、あの時と全く同じである。それから頁を手繰ってみても、キティや、カレーニンの名前など、あの冬に夢中で読み続けたときにひたすら親しみを込めて記憶した名前が目に飛び込んで白井青年はしばし恍惚にも似た気持ちを味わった。それから『アンナ・カレーニナ』を本棚に戻して、今度はデリダの入門書をゆっくりと手に取った。埃一つかぶっていない。それから捲りやすいそれをパラパラと眺めてみると、パルマケイアー、散種、来たるべき民主主義など、デリダが自身の哲学書の中で織り上げた哲学上の概念の名前が記憶の洪水と共にづらづらと頭に浮かんだ。そのうちの一つ――おそらくデリダの哲学の中でも一番著名な概念である―――「差延」というものが白井青年の頭を強く打った。差延とはデリダの造語で、元々は「違い」「差異」を現わすフランス語のdifférencedifféranceともじったもので、「延長」の延の字と付いているのは日本語訳である。差延とは何か。簡潔に述べると、あるaという存在/存在者があるとして、そのa自身におけるズレのことである。つまり、自分は自分自身からつねにすでにズレているというあの文言……。自分は時間的にズレている。自分という中心性めいた絶対的なものは「存在しない」。自分はつねに揺れ動く、移動する。自分は勿論空間的にもズレている。在るのは「自分がそこに居た」という「痕跡」だけである……。ひとくちに言えば、「差延」という概念はそのようなことを示している。この項目を見た時、白井青年はこれだと思った。というのも、自分にはまだ「名前」が欠けていたからである。苗字の存在、名前の不在。白井自身からズレていく白井。これに名前を付けよう、今からお前は「白井サエン」と名乗るのだ! 白井サエン、の諸存在。こうしてかの長々しく実に不快でユーモラスな命名授与は遂に終わったのである。

 ……しかし、白井サエンはそのジャック・デリダの入門書を本棚に戻して、しばらく睨んでいた。彼がまだ読んだことのない本もそこにはあった……たとえばメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』。安部公房『カンガルー・ノート』。キルケゴール『死にいたる病』などの書籍がそこには並んでいた。そこで白井サエンは「世界の大思想」シリーズの『死にいたる病』を手にとり(それらも古本ながらに極めて綺麗な状態のものであった)、長い目次に驚きを覚えながら本論の冒頭はどこからだ、と探して回った。

 「人間とは精神である。精神とは何であるか。精神とは自己である。自己とは何であるか。自己とは自己自身にかかわる一つの関係である。いいかえればこの関係のうちには、関係がそれ自身にかかわるということがふくまれている。したがってそれはただの関係ではなくて、関係がそれ自身にかかわることである。」(松浪信三郎訳)

関係がそれ自身にかかわる、云々。少なくともこの段落を白井サエンは三回目で追ってみた。それでもさっぱり分からなかった。しかし、そこには分からないことの奥にある、安易なる理解を簡単には受け入れない著者に対する挑戦意欲のようなものが芽生えていて、しかもそれをキルケゴールは「絶望が死にいたる病である」というテーマにおいて積極的に望んでいることのように白井サエンは思ったのである。「人間は精神である……」の下りの前には、章句でこう書きつけてあった。「A 絶望は精神における病、自己における病であり、それには三つの場合がありうる。絶望のうちにあって自己をもっているということを意識していない場合(非本来的な絶望)。絶望して自己自身であろうと欲しない場合。絶望して自己自身であろうと欲する場合」と。これはキルケゴールによる実に本質的なる絶望の形態の類型論だ。そこで改めて本論の冒頭を読み返し、特にこの「自己とは自己自身にかかわる一つの関係である」というセンテンスがかなり意味を取りにくくしているということに気付いた。精神、自己、関係。自己は、自己自身にかかわる一つの関係である、云々。これも「差延」の概念に近い、「自己」の内なる分裂をアプリオリに想定した考えであろうか。積極的、主体的、いわば「超自我的」な自己がいて、もう一方の受動的、被抑圧的な自己に対して「関わっていく」この現象こそが「自己」でおこなわれる諸運動の全てだ、というような態度表明だろうか。いずれにしても、この本は必ず読まなければ、と白井サエンは思って、しかしそこで本を閉じた。いつかこの本に取り組める時が来るのだろうか? この非常事態のような状況においてはそれも難しいかもしれない。さて、しかしなぜ本棚が無造作にぽんと置かれているのだろう……白井サエンはいつしか、自分が本を眺めている間は、それが読んでいるものであっても読んでいないものであっても、幾分か気が紛れて幸せな気持ちになるという事を発見した。それは実に明快な発見であった。書籍や文字を見るとごく自然にリラックスできるのだ。しかしその愉悦なるミュゼアムはあまりに仕入れ数が少なかった。試しに本棚の裏も動かしてみた(それほど重くもない)。しかしそこには相変わらずツルツルに磨かれた白タイルがあるだけで、本棚はつい今しがたここに置かれたとでもいわんばかりの様相であった。抜け穴のようなものも無い。白井サエンは溜息を吐いて、しかしやがてその場を離れることにした。

 

 

ダス・マンの宇宙(3)

ダス・マンの宇宙(1)はこちら↓

 

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(3)

 

 

 ダス・ハワイアンはとりあえず進んでいった。すると、おもむろに通路自体が右へと向き始めた。通路の構造が一瞬のうちに変化したとは考えられないから、この通路はスタート地点から見た場合には右に蛇行しているのだろう。彼はまた再度の猜疑心に囚われながらも確実に通路を進んでいった。相変わらず天井は高く、壁はどこもピカピカに磨かれていた。通路の幅はだいたい五メートルといったところだった。天井に対して細長いことが分かった。それにしてもたくさん歩くことだ。スタート地点に特に未練はないが、なんとなく最初に倒れていた場所を大切にした方がよいのではないかと言う安易な発想がダス・ハワイアンを苦しめた。何分歩き続けただろうか。ふと、変化の兆しが現れた。待望の変化の兆しだ。というのも、右手にある壁の目の高さのところに一つの不可思議な看板があった。それは、看板というか、実際の所黒板であった。黒板の四角のフレームは金ぴかの塗装がしてあって、それはどうにもへんちくりんな雰囲気を漂わせていた。そして何よりダス・ハワイアンがびっくりしたのは、黒板に大きく

               形象《宇宙クウカン》

と書かれていたのだ。ここで私たちはようやくこの男が迷い込んでいるスペイスのことを「形象《宇宙クウカン》」と呼んでもいいらしいことが分かる。しかし、このダス・ハワイアンにとってはそうではない。今彼は混乱していた。形象《宇宙クウカン》? クウカンはなぜカタカナなんだろう、空間のことか、はたまた空閑のことか? しかし、最初に宇宙とあるから「宇宙空間」の読みで正しそうだ。しかし、形象とは? フィギール? 形? どういうことだろう、この建築物の形のことだろうか。そんなことは序盤のダス・ハワイアンには全く予想もつかないというか、彼は探求=彷徨をまだ始めたばかりだったのだ。ダス・ハワイアンはしばらくこの拍子抜けした黒板(学校の授業で使われている通常の黒板と同じサイズ)と文字を眺めていた。この空間の名前が、「形象《宇宙クウカン》」ということでよいのだろうか? ——そうだ、よくできた、ダス・ハワイアン、もとい白井サエンよ。正解だ。しかし……それからダス・ハワイアンは、黒板の下の溝のところに何本かのチョークがあることに気が付いた。彼は恐る恐る黒板に近づき、猜疑心を抱きながらも、チョークを手に取ってみた。全部で五本ある。みな色が違って、通常の白と赤、黄色に、水色と橙色まであった。水色のチョークを見るのは初めてかもしれない。それにしても、この「形象《宇宙クウカン》」という文字は、何で書かれているのだろう。これは金属だろうか。見たところ、黒板の真ん中を金属か何かで固めたようにがっしりとした素材でそれらは作られているようだった。この黒板は使えるのだろうか。ためしにダス・ハワイアンは水色のチョーク——それらは長さもまちまちだった。白色のチョークは一番擦り切れていて、赤のチョークも使いさしだった。黄色のそれも同じだ。橙色のチョークは使ってなかったようだが水色のチョークに比べて少しだけ短いようだった。水色のチョークが一番長かった。長すぎるくらいだ。ダス・ハワイアンは「前世」においてそんなに長い間チョークをじっと見続けたことは無い。ただ、掃除当番で黒板掃除をするときなどにチョークの色味を見ては、なんとなくだがこっそり口の中に含んでみたくなるような、そんな柔らかさを前白井サエンは感じていた。——を持って、黒板の隅っこで祈るようにおそるおそるチョークを引いてみた。

   しろい

書いた後でダス・ハワイアンという男は笑ってしまった。水色のチョークで「しろい」と書くとは。そしてこの時ダス・ハワイアンは悟ったのである、そう、自分には確固たる名前が無い、と——。「前世」、すなわち「昨日」を含んだ一か月前後の記憶障害にあっている。それまでの世界は憶えていたはずだ。しかし……自分の名前は一体なんだったのだろう? 日本人という事は明らかな事実だ(事実でなくとも、事実への強い信仰があればいいと半ば開き直りぎみのダス・ハワイアンであった)。なのに、苗字も思い出せない。しからずんば個体に固有の名前や? 自分は何と名乗っていたのだろう。どういう名前で生活をしていたのだろう。冷静になって、全く思い出せない。鎌田由伸か? 浜本祐介? 堀田直樹? スズキ・イチロー? ジョー=ウィルフィード・ツォンガ? 全く思い出せない。どれも自分のものとしてしっくりこない。しかしダス・ハワイアンは決して混乱などしていなかった。もう何が起きても変じゃないのだ。僕は先ほど、苦手だった大声の発声を久しぶりに快活にやり遂げることができた。大声と言うよりただの奇声だったのかもしれないが、その声を聞きつけて不快そうな顔つきをしてくる他人も居ないし、しばらくは多分僕一人だろう。僕はここに適応し始めている、とても不思議な仕方で。そして——僕は完璧な長さの水色のチョークで書いた「しろい」という文字がとても気に入った。黒板でチョークを引くのはとても気持ちいい。だけど今はそれ以上何も書かなかった。ダス・ハワイアンは水色のチョークを元に戻し、黒板から決して貧しくない躰を離した。形象《宇宙クウカン》という文字は厳然として聳え立っている。僕に何かを告げるようで——。ならば、この空間は今より「形象《宇宙クウカン》と呼称されるべきであり、そして、そして、僕の苗字は今日から「白井」だ。僕は白井として生きていこう。たとえこの空間での《生活》がどれほどのものとなるかは分からない、すぐに終わるかもしれないしこの心地好い悪夢に似た状況は半永久的に続いていくのかもしれないが、僕は白井として、白井としてこのスペイスに留まろう。僕は白井としてこの通路を探求する。僕は白井としてスタート地点をマークする。まずは抜け道を探すことだ、スタート地点には戻れないかもしれない。そのことはダス・ハワイアン、いや失敬、「白井」青年を不安にさせた。もうあのゴミ屑も同然の、水色の包装紙であるハワイアン味のチュッパ・チャップスの文字を見ることは無いだろう。僕は白井として、前に進んでいこう。

 

(4)につづく

 

 

 

ダス・マンの宇宙(2)

 

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(2)

 

 そもそも私たちの白井サエンは「昨日」よりも遥かに大事で危険なものを喪失していた、そのことに彼はまだ気付いてもいなかった。そう、私たちが《白井サエン》と一方的に彼のことを呼称しているだけで、彼自身は自分が何者であるか——灰色のパーカーに描かれたDas Manの文字はそのヒントの一つだとはいえ——を本当の意味でよく分かっていなかった。ちなみに話者であるこの私は、唯名論はおおむね正しいと思う。ただし、私が理解した上での独自の唯名論もどきをちょっとここで展開しておきたい。つまり、世界は概念から成っており、というのは概念に付された名前がその全ての本質や様態を包み込んでいるのだ。一切は名前である。というのは、名前からあらゆるものが演繹されるからだ。一匹の犬、チワワも、まず《チワワ》という名称が人間社会の中で規定されることによってそれとして捉えられ、《チワワ》は「小型犬」で「メキシコに由来する犬種」で「臆病な性格の持ち主」である、エトセトラ……という一般項が徐々に形成されてくる。実在界をおおいに度外視すれば、やはり一切は概念とその名前なのである。概念規定が、人間の知解可能な範囲においては、全ての物事を合理的に説明してくれる術なのだ。さて、白井サエンの話に戻ろう。今、白井サエンが「昨日」のことをよく思い出せなかったりその他の記憶が混濁していたり、形象《宇宙クウカン》の態勢=体制にまだ馴染めずに困惑しているのは、すなわち彼が出発点となる自己把握をできずにいるからなのだ。あらゆる物事は自己と結び付けることによってその関係性を確かなものにする。白井サエン——実を言うと、今の時点では丸井クリステヴァと同じくまったくの仮名にすぎないのだ!——は自身の名前が存在しないことに気付いていない。名前の不在はそれだけで恐ろしい。彼はどうなるか。まだ、チュッパ・チャップスの包み紙を大切そうに持ち歩いている白井サエンは、白井サエンという形象《宇宙クウカン》での別なるコード——規定、概念規定——の存在に気付いていない。それはこれから獲得されるものである。彼はまだ名を持たぬ青年なのだ。ナナシノ白井である。次なる過程は、ナナシノ白井がどうやって私たちの白井サエンへと相成っていくかを監視していくことになろう。今、男はチュッパ・チャップスの包み紙を大事そうに抱えている。したがって、呼び名はまたもや変更されることになるが、チュッパ・マンとしておこう。これまた概念規定である。チュッパチャップスマン(短くするとチュッパ・マン)は灰色のパーカーを着たまま、あてどなく辺りを見廻した。(まだ名前の喪失には本質的に気付いていない模様)チュッパ・マンは仕方ない、と溜息をつき、コンバースのシューズの爪先で床をとんとんとたたいてその実在感にげんなりしながら、少し体を動かした。倒れていた時間が長かったのか、ひどく背中が傷んだ。体がバキバキで、チュッパ・マンは少し準備体操の運動をすることにした。体を伸ばしていると、あちこちが戻ってきたような感覚に囚われた。これは僕の……実在感、リアルな感触だ、それがこの「身体」に戻ってきている、という……。ところでチュッパ・マン、もとい白井サエンへと変成する男の躰は貧相だった。彼は学校でも帰宅部だった。学校の成績はいいほうだった。それで肉体上のあたたかい母親は大手の塾に行くことをこのチュッパ・マンに示して、彼はそれに同意した。高校一年の春のことである。チュッパ・マンはなんとなく、自分は記憶障害になる直前、高校二年生だったんじゃないか、と思えてくる。なぜなら、高校二年になって塾でのお気に入りの英語の先生が変わってしまって、実にくだらなく怠惰で睡情ばかりのさばらせる様な詰まらない先生に変わってしまったことを覚えているからだ。あの先生はどうしようもない。丸井クリステヴァも同意していたはずだ。そうだ、丸井クリステヴァはどうしているだろう。この白色の世界——形象《宇宙クウカン》のことだが——の何処かに僕と同じようにして彷徨っているとでもいうのだろうか? 思い出はたびたび蘇ってくるみたいだ。ならばそんなに性急に慌てなくてもいい。徐々に、時間が解決してくれるだろう、とその時のチュッパ・マンは思った。話を戻すと、チュッパ・マンの躰は実に貧相なものであった。躰が貧しいことに対して、彼は平時から一種の羞恥心をおぼえていた。丸井クリステヴァは、学生ながらに、豊満で充実した「肉体」を有しているのだった。たしかにそれはチュッパ・マンの欲望を掻き立てドライヴさせるのにとっておきの対象でもあったのだが、もしかしたらチュッパ・マンは本当に心の底から丸井クリステヴァの充満した肉体そのものに憧れていたのかもしれない。肉欲そのものについては後に記述される。チュッパ・マンは一通りの準備体操を終え、いくぶん晴れがましい気持ちにさえなった。そこで、とりあえずこの不可解な建設物をしばらく歩いてみよう、という気になった。

 さきほども言ったように、形象《宇宙クウカン》の建物は全て白い。天井だけが、ゆったりとした黒線が碁盤の目状に引かれている。それ以外の壁や床の白さは、完璧なショッピングモール空間のそれを思わせる。ショッピングモール。チュッパ・マンは、この監獄=ショッピングモール(ショッピングモールは監獄ではないが、「監視」カメラなら何台も馬鹿のように設置されているという点では監視システムの一つでもありそうだ)の迷路を彷徨するにつけ、彼が「前世」で見た各地のショッピングモールとそれらにまつわる思い出が蘇ってくることになった。なぜなら彼の彷徨の主目的は過去を恢復することでもあったから。奪取された「昨日」、そして「昨日」の連なりを。とりあえずそれは先の事だろう。形象《宇宙クウカン》は厳密には通路になっていた。どこへ続くか分からない通路だ。とにかく、右の壁があって、左の壁があって、上には天井、下には床があり、進むのは前か後ろかの二択しかない。ためしにチュッパ・マンは天井を除く全ての白いタイルを触ってみたり、軽く手の甲で叩いてみたりした。天井はとても手が届かない高さにあった。そう、形象《宇宙クウカン》は広大なスペイスなのだ。そのことを知る由もないチュッパ・マンは、自身が寝起きの時に目に飛び込んでくる視覚の情報が最優先され、天井の高さなどは考慮されていなかったのだな、人は下から景色を見上げる時に高さを意識しにくいものなのだろうか。とにかく、天井の高さだけで軽く十メートルはありそうだった。この事実はチュッパ・マンをゆっくりと青ざめさせていた。いうなれば、こんなだだっぴろくて薄気味悪い空間に、自分一人しかいないのだ。チュッパ・マンは思わず「あー!!!」と声をあげた。音は壁をつたってすぐに跳ね返される。反響があるのだ。チュッパ・マンはもっと声をあげた。あー!!!あーーーーあーーー!!!!あーーー!!!!あああああああ!!!!が――――――――――ガガガががっがあああああああああああ!!! さすがに声が限界になり、むせてきてチュッパ・マンは咳をひとつふたつした。声は反響する……天井を、壁を、床を伝って——。この空間はだいぶ広いみたいだ、とチュッパ・マンは今回初めての発見をした。

  • この白いだけの空間は、だいぶ広い。

そのセンテンスを頭の中で幾度か反芻した。しかし、だいぶ大きな声を出したことでチュッパ・マンは薄ら気味の悪い恐怖に捕まれていた気色から半ば解放された。しかしと思う。今の声は本当に僕の躰から出た声だろうか? 自分にしてはものすごく大きな音量だった、快活な力が一気に放出されているようにも思われた。欲求不満だったのか? 彼はどちらかと言うと歌が上手い方ではなく、得意の音楽の授業ではピアノもギターも弾けるのにこの生の自己の歌声だけは嫌っていた。歌が上手に詠える友人やシンガーをどれほど羨ましく思ったことだろう。だがさきほどの発声でチュッパ・マンは気付いた。歌が上手い人は、とりもなおさずみな声量が備わっているということだ。歌というのは、一種の音圧を呼吸にのせてあたりに発散すること。とすれば、呼吸や発声の練習は、たとえばサッカー選手にとってのドリブル練習のように、当たり前の基礎練習なのだろう。チュッパ・マンは自分の歌声が恥ずかしくて、音楽の授業では小さな声で、できれば歌わないで済ませていた。そのことを歌が上手な丸井クリステヴァから優しくからかわれたりもしたものだ。少しだけ自分の歌(ダミ声だったので音質はなんともいえないが)に対する視線が変わって男は気持ちのいいものをおぼえた。形象《宇宙クウカン》は本当に広かった。さきほどからチュッパ・マンは歩いていた。すると、分かったことに、通路(壁にさえぎられたタイル床)は進行方向から見て少しずつ右に逸れているようだった。全体があまりに巨大すぎてそうとは気付けないほど徐々に、ということなのかもしれない。しかし、僕が右に曲がっているのは確かだ。というのも、チュッパ・マンは自分が最初倒れていたところを賢明にも《スタート地点》と考えて、チュッパ・チャップスの包み紙をそっと置いておいたからである。そして、通路を少し進行したところでまた帰ってみた。チュッパ・チャップスの包み紙は元の位置にあった。相変わらず「ハワイアン味」と書いてある。私たちの暫定的な使用である「チュッパ・マン」の呼称もこれで終わりだ。彼は相変わらず「Das Man」のパーカーを着ているし(そこに描かれたラフな人物スケッチは実に悩ましげなポーズを決めているが)、水色のハワイアン味は確かに好物だという事も十分すぎるくらい思い出したので、これからしばし暫定的に(また!)、この男の事をダス・ハワイアンとでも呼ぼうか。ハワイアンマンでは何だかチュッパ・マンと被って面白くないし、ダス・ハワイアンなら面倒なときも「ハワイアン」と短縮して呼ぶことができる。とにかく、ダス・ハワイアンはチュッパ・チャップスの包み紙を床に置いてマークした。《スタート地点》は恒久的にそこにあり、かつそこから通路をつたって前に進んでいくと、やがて右の方向=彷徨にうつっていくことが分かったのである。そこから彼の絶え間ない実験と観察がはじまったのであった。

 

 

(3)に続く

ダス・マンの宇宙1(小説)

前回の記事であげた創作文章の続きは、全然書けていません。書いてはいるけどまだ掲載できるような状態では全然ないので、その前に前から温めていたネタで中篇小説の予定のものをかきはじめたので、載せます。

 

文章がちょっとくどいですが、なるべく長すぎないように載せていきたいと思います。

 

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ダス・マンの宇宙 (1)

 

 ……男が目を覚ますと、彼の意識にまず飛びかかってきたのは自分が何か固い床の上に横たわっていて、背中とおもむろに接触しているゴツゴツした不快な物体との感触の眩暈だった。人は普通柔らかかいものの上に眠りをささげるものだ。男の背中で感じられたものは不快な固さと驚くほどの残酷な冷たさだった。もちろんそれらはそのまま激しく硬度で冷却されているというほどではなく、ただのフローリングか何かのタイルが剥き出しにされた形での床に過ぎなかったのだが、目覚めたばかりの男はすぐに「世界が自分に対して不快である」、若しくは「自分は不快という概念を世界に対して抱いている」という自分自身の意識に気が付いた。それは文字通り不快なことであった。不快な固さ、不快な冷たさ。世界は自分を拒んでいると思った、あるいは目覚めたばかりの自分が新しい世界を拒んでいるのか。そうしたことを一瞬のうちに想起している内に、自分は「いつもとは異なった」状況に置かれていることにうっすら気付きはじめた。というのは、いつもはこんな不快な床の上で寝っ転がったりするわけはないからだ。自分の確立されたテリトリーであるところの「自分の部屋」に彼はいつも安住していて、夜遅く帰ってくる時でさえ大層お気に入りのふかふかのベッドに自分をやすらわせているのであるから。つまり、ここはいつもとは違う場所、違う空間であるかもしれないという事だった。そうしてそれはそのまま彼を取り巻く「現在」の状況だった。男は目覚めた。上半身をゆっくりと起こした。その前に気付くことがあった。彼がしばしの間タイルの床に寝そべっていた間、彼の眼はやはり見知らぬ天井を捉えていた。それは真っ白のタイルであった。不思議なほどに白い色の天井は、碁盤の目状にびっしりと引かれた線と絡み合っていた。それはなんとなく彼に監獄の景色を思わせた。白んでいる天井はどこまでも広がっていた。男はそれを気味悪く思った。それに、床も天井と同じようなタイル張りで出来ていた。それはどこまでも男を拒絶しているようなしらじらしさを備えていた。男はあたりを見廻した。壁までが同じ造りだった。おまけに壁はピカピカに磨かれているような風があり、光沢さえ見られるのだった。どこを見ても、白、白、白。男は文字通りの眩暈に襲われた。男はそのようなスタート地点を与えられた。そこは形象《宇宙クウカン》の「空間」である。彼は形象《宇宙クウカン》の内部において誕生したに過ぎない。内部から与えられた世界において、全—世界を把握することはできない、それは人間には不可能だ。全能な神に比べれば人間とは欠陥を抱える神であるから。もちろん、《白井サエン》もその一人であった。この、白井サエンと呼ばれることになる人物は、実に奇妙な環境を与えられていた。まず、その人物は自分で自分の名前をつける必要があるだろう。言うなれば、母マリアは隠されているのである。イエスと名付けてくれる聖母マリアは存在しない。いや、彼に肉体上の親族はいたはずなのだが……。ここで白井サエンの過去について触れておこう。白井サエンはもちろん違う名前を現実世界で有していた。しかし、それがどういった名前であるのかはここではどうでもいい。それは紙面上の文字よりも軽く、つむじ風にあっという間に吹き飛ばされるような存在である。言うなれば、前—白井サエンは、しごく一般的な学生生活を送っていた男子高校生であった。彼は、人生のレールを着実に進んでいる途上であった……彼にはあたたかい肉体上の親が存在し、それから五つ違いの妹が一人居た。妹は彼には似ていなかったが、彼はことのほかこの些か年離れた妹を溺愛した。それから、前白井サエンにはガールフレンドと呼ばれる人種がいた。高校生活で初めてできた、可愛らしい女子であった。彼はよく彼のガールフレンドと、人生の怠惰について議論を交わしていた。なぜ、われわれは生きなければならないか。なぜ、生きることは刑苦か。刑苦に、どんな意味があるか。こういうことを、高校生がもてるだけの余裕と思考回転を使って考えた。そのガールフレンドは時にカトリック的な発想を前白井サエンに伝え、前白井サエンはそのことにいちいちびっくりした。名前はなんだったか。M、丸井クリステヴァ(仮の名前、初めてのガールフレンドにして進行形)のあどけなく可愛らしい顔から零れる言葉の重力について前白井サエンは思いを巡らせたものだ。そしてそれは確実に彼の血肉となった。……或いはこういう事柄が、前白井サエンと白井サエンを分岐させたのだろうか? いずれにせよ、前白井サエンの人生の仮手記はここで止まっているようなもので、全ては過去形である。そこには一つの憐れみも逡巡もない。前白井サエンにおいてはあらゆる事柄が過去の出来事である……そしてそれは実に幸福なことでもある。全てが宝物のように感知可能な記憶の乗り物と化すからだ。私はそれを記憶の宮殿と恥ずかしげもなく呼称したいと思う。これから白井サエンはしばしば自己が作り上げた些末な記憶の宮殿に憑りつかれるだろう。そう、一つの形象《宇宙クウカン》は実に監獄でもある。監獄と過去の回想は分かちがたく結びついている。人々は自らの過去によって罰されるのだ。自動的自罰化装置。そんなものを近代は産み出したのだろうか。

 それから男は自分のことについて考えをめぐらせた……考えたのだが、何も出てこないことに男は狼狽えるしかなかった。自分? 僕は誰だろう。僕は部屋の中で……部屋の中にいたはずだ。そう、自分の部屋。カーペットで敷き詰められた床の上に大人一人が寝そべっても十分にスペースのある水色の木製ベッドがあって、自分のお気に入りのWindows8が搭載されたノートパソコンが充電されていて、部屋には机が一つと本棚が二つ、部屋着や制服を容れたタンス、……それから誰かのポスターが壁に何枚か。何のポスターまでかは男は把握できなかった。なんだっけ? ひどく記憶が朧気だ。音楽アーティストのジャッケット写真のような気もするし、それこそ同時代に活躍している女性アイドルの宣伝ポスターかもしれない。何にせよ確信がもてない。僕の部屋はそのようにして割合簡素なものだったはずだ。机の上には灰色の蛍光灯があり、部屋の電気は大きなLED電球が配備された柔らかな光で、部屋の埃さえちらちらと舞っている。本棚には、世界文学全集シリーズのトルストイの『アンナ・カレーニナ』やジャック・デリダの表紙が橙色の入門書が目立つ場所にある。だいぶ意識は明瞭になってきた。僕はそのような場所にいたはずだ、今まで。なんだかスタート地点を間違えた気がする。僕はいつもその部屋に戻って、水色のベッドにかけられた布団にもぐりこんで、部屋の電気のスイッチを切って一日を終える。するとまた新しい一日が太陽の訪れとともに用意されるわけだ。実に怠惰で、実にルーティンな毎日。そんなフツウノマイニチを僕は過ごしていたはずだ。さしずめ僕は学生だったはずなのだ。僕はどこかに監禁されたのだろうか? 何者かによって? ここはどこだろう、監禁されているとして、監禁者はどこにいるのだろう? 何か監視カメラのようなものが? そう思って男は冷静に、もう一度辺りを見廻してみた。ぐるっと回りさえした。しかし、死角に監視カメラのようなものは見当たらない。もっと辺りを探るべきか……これは悪夢なのか? 何故僕の記憶は曖昧なのか? 頭を打ったとも考えられる。男は自分の後頭部に手を当てた。しかし、特に外傷を受けているというわけでもなかった。男はそこで初めて自分の身に着けているものに意識をやった。男は灰色の生地のパーカーに紺色のデニムジーンズを履いていた。アクセサリーなどの装飾は何もない。コンバースの白いシューズを履いて、その靴は黒の少し長い紐できっちりと結ばれていた。靴を履いている? そこからは水色の靴下がのぞいていた。灰色のパーカーは男が普段着としてよく着用しているものだった。デザインとしてロダンの作製した石像を連想させる悩ましいポーズをしたラフな人物のスケッチが真ん中にあり、その上には「Das Man」と書かれてある。ダス・マンか、と男は思う。意味は分からない。ただ、ドイツ語で有名な言葉であるというのを彼は思い出していた。衣服はいずれも清潔だった。不思議なほどにそれらは皺がなく、さっぱりとしていた。それから男は一つのことに思い至った……「昨日」の記憶が無いのだ。それは私たちから見れば仕方がないことなのかもしれない。後で明らかになることだが、白井サエンからは予め直近の一か月分の記憶が剥奪されているからだ。それは何故か? スタート地点を純白なものとさせるため、である。白井サエンは確かに現実世界で生活をしていた。前白井サエンとしての生活。何のために記憶が剥奪されたのか? それはひとえに暴力によるものである。白井サエンは前世——としておこう——において彼の確かな人生のレールの上を走っていた。それは確かに人生の最高の軌道とでも呼べるようなものだった。彼には未来があったのだ。だから私たちは彼からほんのちょっとの過去、「昨日」や「一昨日」を拝借したわけなのだ。昨日、それは何と美しいものだろう! 人ひとりぶんの昨日は、世界を分割したものである。つまり、それで世界が完成するわけではないが、世界の構成成分が原型と等しい割合のまますっぽりと収まっている。かといって、その日が一般的か個別的かは判別できない。白井サエンから剥奪された「昨日」は確かに何も変わり映えのしない一日だったかもしれないし、世界の終わりだったかもしれない。私はニーチェ永遠回帰の思想を思い出す……度々、空白の「昨日」の残像が白井サエンを苦しめるであろう。「昨日」に何があったか? 健忘症では解答することができないそれらの問い。何があったか? 何があるべきか? 未来を手にした青年は、過去の一部を剥奪されたのである……。白井サエンはとにかく昨日という昨日のことが思い出せないのに苛立った。一番遠い記憶……思い出したと気付いた時には、それは恥ずかしいものであった。学校へ登校する前白井サエンとガールフレンド丸井。白井サエンと丸井クリステヴァは学生が密集する大通りを逸れて人寂しい脇道に入った。そこで人目が(というか同じ学校の生徒が)無いのを確認すると、白井サエンと丸井クリステヴァは秘かに手を繋ぎ合った。「ねぇ……」「なんだい……」「あれは完成したの……終わったの?」「……ごめん、そうだね、言ってなかったね……勿論書き終わったよ……完成したんだ。僕が初めて書いたことになる小説、君に読んでほしい小説だ……!」(白井サエンはここで恥ずかしさのあまり右太ももをつねった! 身がよじれるほどそれは痛々しい思い出だった……)「ほんとう……! ついに書けたのね、すごいね、しかも私の為に……私の事を思って書いてくれたの?」「勿論……勿論。ずいぶん苦労したけどね。自分の小説なんて……本当は破いてしまいたいくらいだ! でも完成したからには君に読んでほしいと思って……」「まぁ……それはいけない……是非! 今すぐにでも読みたい……!」そこで前白井サエンはもったいぶって肩からぶらさげていた学生鞄をさぐって、分厚くなったクリアファイルを取り出した。「ほら、これさ……原稿用紙で五十枚くらいかな……四十八枚だ……タイトルは……」「『長いコール』ね……! コールというのは、これは電話のこと?」前白井サエンは少しはにかんだ。「そうだよ……通話をかける時の音さ……もっとも、まずは読んでみてほしい! 無用な説明はしたくない。本気で書いたんだよ? ……ぜひ、お願いする……」「今すぐ読むわ……ちょっとばかり公園に立ち寄りましょう! 歩きながらでも読みたいくらい……」 これは脚色化された、我慢のならない会話であろうか? 僕の記憶が? 作り替えた? どうにも分からない……しかし、白井サエンが思い出したのは、《前世》の世界においてガールフレンドである丸井クリステヴァ(仮名)のぽってりとした唇と、柔らかな微笑と、透き通るような肌の白さを彼に共有してくれたことだった……暑い夏。そうだ、夏だったはずだ、季節は。白井サエンは思い出した。蝉がけたたましく鳴いていた。「長いコール」と名付けられた確かに僕が書いた小説を丸井クリステヴァに手渡してから、僕たちは街にある小さな公園に立ち寄った気がする。そこで本格的に丸井クリステヴァは五十枚弱の素人の小説に取り掛かるのだった……それから何があったっけ? ひどく記憶が混濁している。現在の白井サエンはうっすらと冷や汗をかきはじめた。相変わらず男の周りには白いタイルばかりが不愛想なる絶対的なあかんべーを彼に対して示している。この状況を僕にどうしろと言うのだろう。「昨日」の記憶もない、何も思い出せない……白井サエンは試しにジーンズの両方のポケットをまさぐってみた。左脚のポケットの方に何か紙屑のようなものがあった。それはどうやらチュッパチャプスの包み紙のようであった。僕はチュッパチャプスを舐めていたのか? 包み紙は空色だった。文字が読める、「ハワイアン味」と書かれてあった。自分が身に着けているもので他に手掛かりになりそうなものはこれくらいだった。あとには何も無かった。チュッパチャップスの包み紙から何かの記憶を手繰り寄せるのはかなり難しい。白井サエンはそれをやろうとしたが、どうしても「昨日」の記憶が蘇ってこないのだった。「昨日」は何処にいったのだろう?

 

(2)に続く(予定です、がんばります)

合法ハーブを求めて(創作)

Day 0

 

僕は何かを書きたい、いやそもそも書くためにボールペンを取ったのだがすぐに健忘症的忘却的失念的無念が顔を覗かせる。そもそも僕はイマココを軸とする前後の記憶を持っていないのかもしれない。それらの記憶の非ーインストール。(ヒインストールという布製のものじみた語句と戯れること)何故僕は該当すべきの記憶を持っていないか。それは、書くための動機の「温度上昇」が足りないためだ。絶望的に。「……について私は語りたい、語るはずだ、さぁ……を語ろう、して、この……とは一体なんなのか!」 それはきっととるにたらないものであろう。僕は驚くべきspeedによる失念を赦したそのとるにたらないテーマないし語句に向かって、届くはずもない天に向かって汚濁した唾を吐きつけるように、虚空をひとつとって投げてみる。不在なもの、不在なものに空虚なものを足すんだから結果はどうにもなりゃしない、無、ノン・サンスである。ここでいうノン・サンスは否定的な価値(および意味)を有しているが、できる限り純粋な《無》の概念の生起といったものにはこれでは到底及ぶことすらできまい。

たとえばサルトルは、初期の大著において《無》の問題をからはじめた。すなわち、「無」とはあるのかないのか(存在論だ)、あったとしてそれはどのように在ると言えるのか、という問いでもってして、まったく新鮮な存在論へ向けた哲学探究の道のりを歩みはじめたのだった。

無、それは無底とも言いかえられるだろうか。たとえば「底無し」の沼とでも表されるように。底がない。基盤がない。これは、ある立体的なイマージュをもってして一定の効果を有している言葉遣いでもある。底—ガー存在—ヲ―支える。支持基体としての底。その底が抜けたら……輝くメロンクリームソーダの入ったプラスチックの容器の底が驚くべきspeedをもってして抜けたとしたら……そこにあるのは、たしかに無だ。無底によって何らかの存在者の存在が消去される。これは自明のことのようだ。ならばこれを僕たちの出発点としようではないか。

そこで、底無しの沼、底無しの闇といったものも連想される……昏い響きよ。漸く私は、一つの信頼できるイマージュ、すなわち「闇」という語句ないし概念に出会ったことになる。ならば問いははじめにこのように変換されねばならない。(A)底無しが闇と等価であるのかないのか、あるとしたらその等号はどのようにして成り立つのか。(B)《闇》とはなんだろうか。続いて両者の問いを展開しなければならない……。

 

……僕はまた、「整形」ということについて考えている。整形への人々の関心は並みならぬものがある。僕はまたしても大きすぎるテーマをもってきたようだ。たとえば、僕のパソコンの向こう側に、顔の整形をしている(長いスパンでみれば現在進行形、未来進行形でもあるのだろう)ことを公表して活動しているYoutuberがいる。今どき、ちょっとした整形ではほとんど誰も珍しく思わなくなってきた。もちろんこれは「都会」的な現象だと思う。「田舎」の問題はもっと奥深いところにある。昔の呑気でそれなのに暴力的思考を有した僕は、身体の様々な部分への整形、整形手術を施すことを「変身願望」の一種だととらえていたにすぎなかった。それは自明の話だ。変身願望は僕にもあった、ただしそれはあくまで幼稚的な発想で、独我論的な思い付きでしかなかったのであるが。整形はむしろ改良に近い、成功したらの話だが。自己自身を高めること。このあたりに整形外科手術はかかわってくる。つまり、マインドの向上。

僕たちは、われわれは、現在圧倒的な精神の頽落の時代に生きている。弱められてしまった自分自身という一人の主体をせいぜい慰めることが一日の日課で、また次の日には労働という化け物に素で殴られるかもしれないのだ。それでも、このような精神の頽落の「原因」もまた人間の歩み、すなわち歴史——僕は戦後日本社会だと思っているが——的な事象の流れの中で決定づけられていると考える。メンタルだマインドネスだスピリチュアルだの宗教だのと何を言ってもいいが、これは間違いなく僕たちの精神が堕ちるところまで堕落した効果なのである。結果、それが身体に逆影響している気もする。これはあまりに思考を優位におき、身体を隷属ならしめる視点であろうか。しかし、身体を復権させる様々な試みがどれほど難しいことか…… 身体は自身の現状に気付ているのだろうか。身体、身体! アルトーの残酷劇、アルトーが必死の闘争の過程のなかで瞬閧のように彼に降りてきた、「器官なき身体」という恐るべき爆弾……。

 

(つづく予定です Day 0の部分はここまでです)