トラウマ履歴をくだってゆけ——大失敗の記録

■トラウマ履歴をくだってゆけ——大失敗の記録

 

 僕のトラウマ形成に関わった大きな出来事のひとつは、大学に入ってから入部した「ロックンロール部」である(もちろん仮名)。これを「大失敗」の経験と呼びたい。ロックンロール部でのすべての出来事は、この「大失敗」そのものだったのだと、今では思えないこともない。

 「トラウマ履歴をくだってゆけ」と題したけど、ようするに自分の暗黒時代()を静かに見つめることで、いくらかでも自分の心のリハビリテーションになるなら、という意味合いだ。トラウマ形成のとるにたらない回想。それを始める前に、いくつか片づけなくてはならないような疑問がすぐに浮かんでくる。これらは結局後回しにして語っていくほかないのだが、とりあえず二つの問題がある。そこまで面倒ではないと思われる最初の方のトピックとして、以下を問いとして立てよう。

『僕の"真っ黒な日々"とでもいうものが2015-19の健忘的な記憶障害に関わっているとすれば(前回記事:心のリハビリテーション - 書も積りし第二期)、この真っ黒な日々を過ごしてきた侘しい心性と、安易に思い出したくないがために蓋を閉めて忘れ去ってしまいたいとでもいうようなこの「逃避」の心理は、いかに形成されたか???』 

大半が二十代のうちだ。(1)ロックンロール部での失敗は、本当に外傷的な個人の体験だった。(2)それからしばらくして、高校の友達をほとんど失ったわけだが、そのことは今でもつらい。(3)そして、もうひとつ、僕が大学を留年してから後に大きな失敗をしたことがある。

 18,19の頃は精神的には「まだ」うつ病にとどまっていた、現在のような双極も不安症もない、まだ十代特有の謎の溌剌さがある青年mistyは、授業の合間、ロックンロール部で練習に励んだり単に談笑したりしていた。

 一年生の秋だったか、冬だったか。一つ目の失敗をしたな、と思った。年齢がひとつ上の女性の先輩に、ねちっこい陰険な批判をされたのだ。当の問題の詳細は省くが、僕の言い分としては、サークルのとある暗黙の慣行となっていた事態を、そうとは知らず、「これってルール違反にならないんですか?」と、部誌ノートに率直に書いてしまったのだ。暗黙のルールとして存在するなら、どこかに明記する方が誰にとっても分かりやすいと思ったからだ。僕の落ち度としては、たまたまそのこと(暗黙の慣行はみな共有して知ってしかるべきである)を知らなかったこと、あと、不用意に、何人かの神経を逆なでするような書き方をしてしまったのかもしれない。いずれにせよ、僕を批判(というかその後、無視を続けるとか、話しかけてもぶっきらぼうな返事しかしないとか、陰険とした態度)した一つ上の学年の「めろん先輩」は、突き放すような血の気の多い文章で、赤字でこう部誌に書きつけていた。「ふざけんな!下級生が指摘してんじゃねえよ!」。激しい怒りがすぐさま読み取れるような口調の文だったことは憶えている。部誌のそうしたやり取りを目にした他のサークル部員がこれは穏やかなことではないな、という事態にいたって、僕は他の先輩から呼び出された記憶がある(どの先輩に呼び出されたかの記憶は曖昧である)。

めろん先輩、死ねばいいのにな、今頃死んでいないかな、とんでもない不幸な目にあってこの世からいなくなってくれたらなぁ、と今でも正直思うことがたまにある。僕はほんとに冷酷だから。今でもめろん先輩のかけていた鋭利な黒縁のメガネのフレームを思い出すだけで頭が緊張してくる。あの時、僕はすぐに教訓を得て次の行動に繋げていくことを考えなかった。反省に失敗したのだ。やらかした後、学び直すのが何よりも重要なのだ。しかし、とにかくちゃらんぽらんに生きていた僕は、その「めろん事件」――あるいは部誌事件でもよい——が終息に(というかうやむやに)近づいても、このサークルなんかイヤだな、めろん先輩とはもう二度と口聞きたくないな、などということを思っているばかりでなにも今後の対策をしなかったのである。精神年齢8歳か?

 もうひとつ、同じ時期に失敗をしてしまったことがある。この失敗の方が決定的で、僕はこの時点でロックンロール部を辞めてしまうべきだったとも思う。他にも軽音サークルはたくさんあったし、実際僕はロックンロール部でどんどん浮いた存在になるので、他のサークルの先輩や同級生たちとの交流の方に楽しさを求めていったから。

 当時僕はロックンロール部のホームページ係をやっていた。ホームページといってもとても簡素なもので、どうやらそれまでのロックンロール部はインターネット関係にそこまで詳しくなかったみたいだ。僕も趣味で個人サイトをやっていたぐらいのお粗末な持ち技しか有していなかったが、必要最低限の情報や更新はやっていた(と思う)。あるとき、大切な情報の不備(新入生との初めての飲み会の金額や場所などのお知らせ)があって、間違った情報がホームページを通して伝わってしまったので、先輩たちは顔を顰めた。僕はそのことをあとになって(周囲の同級生に)知らされた。

 呼び出しがかかった。すでに同級生でその時の部長(ロックンロール部では二年生が代々幹部として役職を持つことになっていた)の「紅さん」と、腕の立つ華麗なドラマーの「納品先輩」だった。彼らはつとめてマイルドに僕の過ちを指摘し、和やかなムードをぎこちなく保ちながら、僕が今後やるべきことなどを口にしていった。部誌事件のことも語られた。紅さんは部長、僕はたかだかホームページ係、互いに同級生でありながら注意を受ける、という情けない僕の姿は、彼らの目にはどのように映ったのだろう。

 なぜ、その時やめなかったんだろう。ロックンロール部なんて、ダサい名前。いかにも九州っぽく、絶対的な上下関係があり、男性は、女性には優しく下級生の男性にはキビしい。

 九州男児という言葉が苦手だった。しかし、Q大学とあれば、四方八方から、というより、九州のねちっこく情に篤くて秩序を守ろうとする、日本独自の保守的—人情的な空気があちこちに蔓延しているのだ。時代が、人が、は関係ない。九州の人同士が集まると、空気は自然とそうなってくる。僕はそのことを何度も目の当たりにした。ここはあくまで伝統的な九州の土地の、いい意味でも悪い意味でも伝統的な大学なのだ、と。

 とにかくその時パッと辞めるべきだった。ロック音楽なんて他でどこでもやれる。しかし、僕は賢くない、極めて馬鹿であってどうしようもなく低いレベルの人間力しか持ち合わせていなかったから、みなから「あいつ、ちょっともめ事多いよな」という雰囲気のなか、ズルズルと留年する年までロックンロール部に在籍し続けた(もちろん部費はちゃんと払い続けたものの……)。

 

 書いていて、心の涙が出てくる。僕はどれだけ嫌われ者だったのだろう。それも実に半端な、うっすらとした嫌悪感なのだ。mistyはどことなくとっつきにくい人だ、という空気が幹部の人たちや、「権力」を持つ上の先輩方を通してできつつあったのだろうか。彼らにしてもそんな意識的な態度ではなかっただろう。全てはあくまでも自然発生的に。自然発生的に、僕はだんだん落ちこぼれになっていった。そうなりながら、自分の理想とする音楽を作り実演するためだけに、ロックンロール部に居座り続けた。

 

三年生になった。僕は三年の春にメンタルを大きく悪くすることになる。