心のリハビリテーション

心のリハビリテーション——まずは2015-19の記憶健忘

 

五年間ほどのことをうまく思い出せない。具体的には2010年代の後半。

自分のリハビリとして、どうもうまく思い出せないとある過去五年間のことを少しでもいいから自分で思い出してみる、ということを、あくまで自分(僕)のリハビリのためにやってみたい。

僕は平成一年生まれなので、平成時代は自分の年齢が分かりやすかった。というか、歳を経るにつれて、昔は自分の年齢をよくあそこまで嬉々として強く記憶していたものだなあと思う。さて、平成は実質三十年で幕を閉じたようなものである。2019年、平成三十一年、そして唐突にこの年の皐月に令和が始まったのだった。それは僕が30の年だったのだろう。そのこと自体は今確認しても間違いないのだが、どうもこの期間、僕が二十六歳から三十歳になるまでの二十代後半のことをうまく思い出すことができない。僕には記憶力が抜群にいい恋人がいて、「え、misty、そんなことも忘れたの?」と言われることがしょっちゅうある。忘れたのだろうか? うまく思い出せないだけなのか……はやいが話、この五年間の間、まったくおもしろくないことがたくさんあった。その中でも特大の毒系イベントを挙げろと言われたら、あれとあれだ(なんだそれは)。これらを避けて書きたいものだが……。

 はっきり言える。まったくうだつのあがらなかった五年間だったと! ところで「うだつ」とは建築材料を指す用語らしいのだが、出世しない、地位が上がらないことをいう。僕は2015-9年の間、まったくもって地位役職どころか立ち位置さえ何の変化もなかった。スティル・ゼア。それは思い返せば全部僕の至らぬ未来予想書の杜撰ゆえであった。だがたらればをいったって何にもならない。

 「小説家になってやる」という野望は抱いていた。しかしそれなら、まず有名な小説講座とか、スクールに入って、小説執筆の最低限のいろはを学んでおけばよかったのだ。少なくともそういう選択肢を少しは真剣に考えるべきだった。なんなら今通いたいくらいだ。しかしもうそんな金の余裕はどこにもない。自分が本気でなりたいと真実の気持ちで願ったのなら、親の脛にもう一度すがりついてでも、「一か月でもいいから文芸スクールみたいなとこに通わせて!お願いだよ!」と叫べばよかった(言えば言うほど虚しいが……)。

 僕が本気で小説家になりたいなぁと思うようになったのは、2014年のとき。この年はあまりにも濃い一年間だった。ハチャメチャな一年だったとおもう。

 前置きが長くなったが、「プロの小説家を目指そう、文学界新人賞とか、ゆくゆくは芥川賞候補にもなる、そんな小説を書けるようになろう」という思いは、その次の年の始まりでも強く持っていた。

 少人数の気心の知れたネット友人を誘って、オンライン文芸部的なものを作ってみた。これは最初のうちはほんとうにうまくいっていたように思えたし、実際楽しかった……というのは、そういうサークル的集いなり、切磋琢磨しようと呼びかけ合った友人(くれぐれも、ネットで知り合ったことからスタートする類の仲である)の存在を己の周囲に感じることはとっても大事だからだ。仲間や好敵手がいる。そう思えること自体がひとつの大きな安心毛布だ。しかし、この塩梅、群れたりお互いピリピリしたりすると変な風に事態がこんがらがっていくのだが。

 僕はとりもなおさず小説と呼べるか呼べないかギリギリのラインのものを、とにかく書き続けた。ここでは結論を先取りして、2015-19年の五年間の間に生まれた作品は、

 

新人賞に出せそうな枚数(中篇・長篇)の作品 2つ

自信のある短編 3つ

その他自信のない短編が10~20個ほど、他、多数の詩、ショートショート、エッセイ、ガラクタの類(磨いてもなんににもならなそうな電子的生ごみ……)

 

これではだいぶキビシイ。五年間の成果がこれである。。

 比較するのも酷だが、二十代の大江健三郎の五年間は、それはもうそうとうすごい仕事量である。長篇だけでも毎年一つか下手したら二つは出してるし、優れた短編集も、中篇集(『性的人間』とか)もいくつも出している。その他、随筆、書評、対談、講演会、読書、音楽、お酒(悪しからず)、人付き合いに家族づきあい、もとより生活……やっぱり比較なんかするんじゃなかった。大江は人間ではないのだ。大江は人間じゃなくて、はるか遠くの文学星からやってきた代表者の一人・スーパー文学サイヤ人なのだ。

 

 大江でなくとも、売れっ子作家は毎年一年に一冊以上の長篇を出しているという気もする。間隔があいても、二年に一冊だ(これとは関係ないが、だから僕は朝吹真理子の沈黙の長さがいっときとても寂しかった)。一年間に、ひとつの長篇、ひとつの短編集、ひとつのエッセイ本、たまに対談集、たまにルポとかその他の類の本。これくらいの仕事量を一切手ぬかることなくやってきた人々の行為の集積が、すなわち戦後日本文学の歴史だ(三島由紀夫辻邦生のそれはさらに異常だが……)。戦後作家はとにかく書いて出版した。僕の書くデタラメな小説やエッセイが、まさか日本文学に通じるだろうことなんてことは現時点でこれっぽっちも思っていない。思っていないし、仮にこちらがそうありたいと思っても、そもそもこればかりは僕が決めることではないからだ。

 保坂和志の『考えあぐねている人のための小説入門』という本では、とにかくデビュー作に100%、いや120%の力を注げ!とあった。僕はこの『考えあぐねている人のための小説入門』に今でもけっこうインスパイアされている(最初は衝撃的でなかなか受け付けなかったけど、とてもいい本である)。プロの小説家になることは何より大事だ。文書書いてメシが食っていけるなんて、かっこよすぎる。だけど保坂が言ってるのは、プロ作家になれとかいうことではなく、小島信夫大江健三郎といった文学史に間違いなく名を遺し続けるような作家になるためにはどうすればいいか?というビジョンだと思う。「プロ作家になるためには」のさらに十段飛びのようなキビしさだ。でも僕も夢を見るくらいはいいだろうと思った。それにどのみち、デビュー作、つまり文学界新人賞群像新人賞文藝賞新潮新人賞、すばる新人賞これら五つの登竜門に作品を昇らせてみたいと思うのなら、「今の自分」がもてる情熱、技巧、頭脳、感性、体力あらゆるエレメントをブーストさせるほかはない。

いつか僕にもデビュー作を完成させられる時がくるだろうか。スタートから全力。それでやっと入り口に入れるのである。カフカの門はいつかは開かれるのだ。

まぁそれはよい。深夜に書き始めたから筆が少々荒ぶっている。とにかく五年間の総計は惨々たるものだ。そしてそれを昏くさせたのは、やっぱり仕事と日常生活のどうにもこうにもうまくいかない、年月とともに徐々に下降していく停滞した日々の重たさである。

 仕事が続かなかった。いったいいくつのアルバイトに応募したんだろうか? お金に困っては何か始めるものの、一か月と続かない。先生によると、これを繰り返ししすぎたため、デメリットの大きい失敗体験の積み重ねにしかならず、トラウマが形成されていく。ある日、本当にやる気というものそのもの、立ち向かうエネルギーがなくなった。こんな事態に至るのも、自分ではうすうす分かっていたのかもしれない。本気で考えずに日雇いややりたくもない仕事を探しては続かず、けっきょく辞めるという一連の流れを繰り返す先には、虚無と疲弊と消尽だけが待っていると。

なんにもうまくいかないなと立ち止まってしまったのが2019年だったと思う。僕はちょうど30歳になっていた。三十代に入ったという重みもここに加わって余計に生活が爛れたものになってきた。体調も悪くなり始め、19年の途中から2020年にかけて仕事も探さずまるっきりのニート生活を貪ることになってしまった。

 小説はなかなか完成させられない。地元に出戻っていらい実家に住んでいたので、両親との軋轢も中々に堪えた。きっと何をやっても面白くなかったんだと思う。その場しのぎの現実逃避ばかり。唯一の慰めは読書とスポーツ観戦。ネット。我ながらよくやっていたものだと思う。断片的な思い出はあるのだが、もうあの頃の虚心的な精神生活を思い浮かべることはできそうもない。悪夢の日々というのには少し遠い。締まりの悪い、どうにもこうにも精彩の乏しい日々が多かったからだ。

 

ここまで書いて思ったが、2017年や2018年といった妖しげな膜を張った記憶健忘に覆われた期間のことを思い出すのはやはりとても困難だ。思い出してつらいことも多少あるだろうし、どこまで頭の中で記憶を再構成すればいいのかどうかも分からない。

だが、焦らないことだ。自分の(長かった(そして今でも?))暗黒時代を見つめる。これはまず何よりも僕のための治療、リハビリテーションだ。書くことは安らぎをもたらす。