文学の危機——日本の言説状況について

■はじめに総括

下の欄では、思想界隈、批評界隈、文学界隈で出てくる著名人の名前で僕が関心がある人の状況を個人的に連ねているのだが、まぁみんなどっこいどっこい。特に現代思想は今オモシロクなっているので、これからも需要がある限りは本屋にも配架されていくかもしれない。批評界隈で著名な人は(大変失礼ながら)ごみ屑というイメージしかないし、まともな活動をやっている人ほどマイナーに追い込まれていくという図式が不思議と透けて見えるのである。現代文学については……。僕としては、やはり平成文学の終わり10年間は脆弱であったとあえて言いたい。もちろん、芥川賞を獲った作家たちは、これからもメディアや出版社の協力をつけて、本を書き続けていくであろうし、実際にそれらは売れるだろう。しかし、たとえばジッドやフローベールを楽しむ人に提供できるような作品は書かれるのだろうか? 結局古典やラテンアメリカ文学のオモシロサに匹敵する日本の現代小説ってどんどん少なくなっていくのでは……という気がしないでもない。それは構造上の理由というより、メディアと出版社のせいである。流通は彼らが取り仕切っているんだから、責任もまた彼らの所にある。オモシロイ小説を書いている人は絶対にこの日本にも何人もいると思う。彼らのような作品はたぶんほとんど発見されていないのである。黒田夏子さんなんかはいい例だ。これは由々しきことだと認識するべきだ。げんに僕は、毎年の各文芸新人賞作よりも、周りで小説を書いている友人の小説の方がどう考えても面白いと思っている。現代小説は、「技術としてのお作法の小説」に成り下がっている感がしないでもない。はやいが話、文学賞を通したのでは、もう高橋源一郎の『さよなら、ギャングたち』みたいな作品は二度と選ばれないだろう。その高橋源一郎氏さえ、最近の著作の売り上げどころか評価も芳しくないみたいだ。どうしちまったんだ現代文学

 もっと由々しきことは、ジッドやフローベールメルヴィル(何でも良いのだが)といった古典の重要性を説く声は、どんどん小さくなっている。これを「文学の危機」と呼ばずして何が文学を救うのだろうか? 批評か? 思想は、文学を救うものではない。思想は、僕の考えでは思考と実践の起爆剤になることはあっても、それを現実の文学や社会や世界設計に適用しようとするといろいろおかしくなってしまうのが現実だと思うからである。虚しいほど期待された新刊本で溢れかえっている書店において文学の溺死をおぼえる、これが僕たちの生きる現代なのではなかろうか。

 

 

 

■思想

思想だろうが批評だろうが、基本的に日本の主流を成している著名人の性格はだいたい悪い(笑) むしろ、性格が悪いことが、彼らの著作の良さを保証しているようなものだ。

——東浩紀。1990年以降の言論論客の代表格である。僕はライトな東さんのファンかもしれない。東さんが好きというより、書かれている『存在論的、郵便的』『ゲーム的リアリズムの誕生』『一般意志2.0』といった著作が好きだ。むしろ、彼のTwitterで散見される「ブロック商法」にはうんざりさせられる。あまり見たくはない。それで彼をブロックする。それでも気になるツイートが他から回ってきて別垢から見れたりするので、見てまた興味を持ってしまう。基本的にはその繰り返しだ。

 東浩紀の良さはそのアクロバティックな運動性にあると思う。デリダ論を基軸としつつも、日本におけるサブカル批評というものを立ち上げ、その後も『思想地図』『ゲンロン』などで社会問題から哲学まで広く扱う思想雑誌の刊行と執筆までをも現実ものにした。最新作は『観光客の哲学』で、最近ますますブームになっている海外交流の「旅行客」にまったく違う光をあてて、そこに哲学的な可能性を論じていくという書物だ。

 

——千葉雅也。この人については正直に複雑な思いがある。『動きすぎてはいけない』が刊行された2013年前後は、僕もすごく千葉さんに憧れていて、リプを何回か貰ったくらいで友人に痛々しい自慢をしていた(笑) しかし、最近の売れてからの千葉さんはちょっと変わったというか、相変わらず書くものは一流なんだけど、Twitterとかを見ると辟易させられる。Twitter上のお作法というのは実に難しい。

 哲学者で、Twitterも(お作法上の問題もなく)楽しいのは、東さんや千葉さんまではいかない比較的マイナーな書き手さんばかりだ。全ての人が、というわけではないが、やはり仕事量や注目度が高まってくるほど、Twitterというものは難しくなるし、それに匿名の誹謗中傷を受け続けた結果性格や行動もちょっとずつ変わってくるのではないか、というのが僕の予感である。有名人になるというのはいつの時代でも大変だ。それに、今は全てのものが見えすぎるくらいに「可視化の時代」だ。いろんなものが見え、一人の呟きや地理範囲までもが見えたりして、それらは千葉雅也の言う「接続過剰」になっている。元凶はといえば雑多に溢れかえるモノやヒトや情報を荒く安易になんでも結びつける資本主義がこの接続過剰な社会を産み出したはずで、それに対する「否!」、アンチを左翼は叫び続けなければならないはずだ。千葉雅也の『動きすぎてはいけない』とは、そうした接続過剰な社会に対する「否!」、STOP!、むしろ接続を解除していこう、積極的に切断していこうというものなのだが、彼も未だ自身の接続過剰状態にはてこずっているのかもしれない。

 

■批評

——宇野常寛。この人も今やまさに憐れになったかもしれない。あんなに本は面白いのに。だから本だけ読みます。Twitter、ブロックさせていただきました。

 

——落合陽一。『デジタルネイチャー』で有名になった人だ。まだ僕はこの売れ本を読んでいないが、おそらく現代思想の先端である「思弁的実在論」や「新しい唯物論」などとも共通項のある社会思想書であると僕は考えている。それは端的に言うと、「人間無しで、人間の理解や身体を超えたところで可能性を発揮する社会や世界」への接近だと思う。僕はフーコーは好きだが、フーコーレヴィ=ストロースが批判しまくったサルトル実存主義哲学と小説も大好きなので、僕は思弁的実在論はあくまで参考程度にこれからも読むだろうという気がしている。僕は小説家になりたい。もちろん評論や哲学書だって書いてみたいけど、少なくとも僕は人間性がまだ残っている社会の中で死にたい。

 

■文学

あるところから、平成最期の芥川賞候補の作品はどんぐりの背比べ状態になっているらしいということを嗅ぎつけた。つまり、明らかにメディアの激推しといやらしいほどのコネクションの抱き合わせによって候補に選ばれたであろう古市憲寿の小説と、他の候補作の4作だか5作だかがほとんど変わらないレヴェルらしいのである。そんなのならもう「該当作なし」でもいいだろうに……古市さんの小説がいくら良くても、もうこれ以上又吉とか羽田圭介みたいな芸人なのか小説なのかよく分からない人の受賞は、お腹いっぱいである。ていうかもうこのままだとマジで現代文学は文学として終わっていくんじゃ…… 

( それが怖い話、僕が書いている小説は最近の新人受賞作の雰囲気とはまぁ明らかに違う気が自分でもするのである。筆の巧さ、技術的なところは最近の新人受賞作や芥川賞作品のほうがずっとうまい。だけど、書いているものは、絶対僕の方が面白いに決まっていると思うし、そういう気持ちで、小説を書いています。村上春樹芥川賞を獲らなかった。芥川賞にこだわっていると、作家として大事な、もっと大事なたとえば歴史に名前が確実に残っていくようなカフカとかバルガス=リョサみたいにはもう決してなれないぜ。日本の中上健次とか佐伯一麦とか倉橋由美子みたいになりたいぜ。無理か笑)

 

misty