感情論と第一の帰結——サルトル『存在と無Ⅱ』

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↑前回記事

 

 今回は、サルトルの「他者論」——それを即自〔無〕、対自〔意識〕と議論をすすめて「対他—存在」として議論する——の中から、比較的分かりやすかった感情論と、他者論の第一の帰結について説明する。今回は分かりやすいと思う。

 

サルトルの感情論——羞恥、恐怖、自負、虚栄

 昨日の記事において、「羞恥」という感情をとりあげた。それはまず、「他者」との関係においてはぐくまれるものである。これから紹介していくサルトルの議論、「羞恥、恐怖、自負心、虚栄心」といったものは、全て「他者との関係において」はぐくまれるものである、とサルトルが考えていることは重要である。それらは人間関係につきものというより、より人間という存在にとって根源的な感情なのだ。

 

それでは引用(および補足説明)をする。

・羞恥

 純粋な羞恥は、これこれの非難されるべき対象であるという感情ではなくして、むしろ、一般に、一つの対象であるという感情であり、私が他者にとってそれであるところのこの存在、下落した、依存的な、凝固したこの存在の内に私の姿を認めるときの感情である。羞恥は、根源的な失墜の感情である。

——サルトル存在と無Ⅱ』pp.184

 

 

 少し補足をしておく。「一般に、一つの対象であるという感情であり…」というのは、私は、他者にとって一つの対象であるという感情、である。つまり、羞恥心とは、私が他者にとって一つの対象物でしかないことからくる感情なのである。

 

・恐怖

 事実、恐怖の内に含まれているのは、私が一つの世界をそこに存するようにさせる対自〔意識〕という資格においてではなく、世界のただなかにおける現前という資格で。おびやかされている者として私にあらわれる、ということである。世界のなかにおいて危険に瀕しているのは、私がそれであるところの対象〔私という対象〕である。……それゆえ、恐怖は、私の知覚野における別の一つの対象の出現をきっかけにして、私の「対象—存在」を発見することである。

——pp.182

「羞恥心」の説明と似ている。違うのは、恐怖の方が論理的には最初にくる感情であるという事だ。恐怖の方が羞恥に先行する。他者の存在をきっかけとして、私が一つの対象でしかないということに対して、私が危険に迫られることからくるのが恐怖という感情なのである(本来的には)。

 

・自負心、傲慢、虚栄心

 

自負においては、私は他者を主観として認め、彼によって対象性が私の存在にやってくると考えるのであるが、しかし、さらにそのうえに、私は自分を私の対象性についての責任者と認める。私は私の責任を強調し、私の責任を引き受ける。要するに、自負は、まず第一に甘んじることである。

——pp.188

 

いま一つは、私が私を自由な企てとして捉え、この企てによって他者が「他者ー存在」にいたると考えるときの態度。——それが傲慢、もしくは「対象ー他者」の面前における私の自由の主張である。けれども自負——虚栄心——は、平衡のない感情であり、自己欺瞞的な感情である。虚栄においては、私は私が対象であるかぎりにおいて他者のうえに働きかけようとする。

——pp.188

 傲慢、虚栄は自負とひとつづきの感情である(論理的に発展される)。

 第一義的な自負心とは、私が対象であることに関して積極的にそれを認めること、すなわち責任を負うことに甘んじることである。

 それに対し、傲慢は、責任と反対方向にある「自由」を他者に対して主張することである。なぜなら、主張というのは方向性をもつ行為、……に対して(英語で言うとagainst?)なす行為だからである。

 虚栄心も自負心とひとつづきの感情である。虚栄心は一種の自己欺瞞であり、自己が対象であるという事を認めたうえでさらに他者に働きかけようとする一つの感情なのである(本来的には)。

 

②第一の帰結

 

 端的にサルトルはこう書いている。

 

いいかえれば、この無は、「他者が存在するためには、私が私について他者であることを否定するだけではなく、むしろさらに、私自身の否定と同時的に、他者が彼自身について私であることを否定するのでなければならない」という事実としてあらわれる。この無は「対他存在」の事実性である。かくしてわれわれは、こういう矛盾した結論に到達する。……

——pp.214

われわれは、根本的な偶然性に出会ったのである。われわれはただ、《こうである》という言い方によってしか、それにこたえることができない。

——pp.215

 

 後半の引用からいこう。ここはサルトルの有名な「実存主義」のテーゼ、「実存は本質に先行する」を十分に感じさせる記述である。「われわれは、ただこうである」という説明のみが在ること。私の私であることを究極的には説明できないこと、これはデカルトの「方法序説」などにおける「私は考える、ゆえに私は在る」といったテーゼを拒絶していると思われる。

 しかし、サルトルはこれらの論理的帰結が、ただ(私の)「精神」を考察することのみからくる帰結であると考えた。それで、前半のような論述が見られるのである(カント的なアンチノミー)。サルトルはそこで、この「まなざし」の章を終えて、「身体」という章にうつる。

 

「しからば、私の身体とは何であるか? 他者の身体とは何であるか?」 こうしてまたサルトルは新しく出発していく。

 

次回も身体論として続く可能性大いにアリ。