サルトル『存在と無』第二巻より

ずっと以前から、ジャン=ポール・サルトルの『存在と無』を読んでいる。『存在と無』の邦訳はサルトル全集のほか、今僕が読んでいるちくま学芸文庫版で3巻に渡ってある。訳者はどちらも同じ松浪信二郎さんである。

 

存在と無―現象学的存在論の試み〈2〉 (ちくま学芸文庫)

存在と無―現象学的存在論の試み〈2〉 (ちくま学芸文庫)

 

 

 サルトルの『存在と無』は、ハイデガーの『存在と時間』と共に西洋哲学に存在論的転回をもたらした画期的な著作だ。しかしサルトルも先行したハイデガーの『存在と時間』に多大な影響を受けたのであり、僕は未だ『存在と時間』を読んでいないのでなんとも言えないが、おそらくハイデガーの提出した(巨大すぎる)存在論を自分のものとしようと獲得・挑戦したのが『存在と無』であろう。難解で長すぎる書物は、しかし、フランス哲学という文脈においては重要であったはずである。僕は、『存在と無』を読んでからハイデガーの『存在と時間』に挑むつもりである。

 

今回は、第2巻の第三部「対他存在」の第一章「他者の存在」から、比較的意味がとりやすく、かつ重要と思われるセンテンスを幾つか引用したい。引用だけで終わるが。

 その前提として幾つか付言しておきたい。

 サルトルは『存在と無Ⅰ』より、「無」の定立からはじまって、「即自」(他のもっと分かりやすい言葉に置き換え可能だったはずなのだがなんなのか思い出せない)の定立にはじまり、「対自」的=意識的存在すなわち「私」(自己)の定立を論証している。なっがい時間論を挟んで、この第2巻にいたって、他者すなわち対他—存在を取り上げているののだ。

 さて、「私」という対自=意識的かつ即自的存在は、「他者」(人間としての他人、存在者としての私以外の存在者)の「まなざし」をくらう。このまなざしによって、私は「羞恥心」をおぼえる。私—あなたという二人称的関係の成立には、二者(と世界?)が必要不可欠である。あなたが居て初めて私が確立される、というのは、サルトルも十分に認めているところである。

 その際、「他者のまなざし」を受けて、私は羞恥する。まずそこがポイントである。

 

 私がそれであるところのこの存在、羞恥が私にあらわにしてくれるこの存在と、いかなる種類の関係を、私は保つことができるであろうか? 

 まず第一に、そこには一つの存在関係がある。私はこの存在である。かたときも、私はそれを否定しようなどとは思わない。私の羞恥が一つの告白である。

——サルトル存在と無Ⅱ』(松浪信二郎訳、2007、筑摩書房)pp.114 より

 

 

世界の時間的空間的な対象としてのかぎりにおいて、世界の内における時間空間的な一つの状況の本質的構造としてのかぎりにおいて、私は、他者の評価に身を委ねる。また、そのことを、私は単なるコギトの行使によってもとらえる。「まなざしを向けられている」ということは、認識不可能な評価の、特に価値評価の、認識されぬ対象として、私を捉えることである。けれども、まさに、羞恥あるいは自負によって、私はそれらの評価がいわれのないものではないということを承認すると同時に、私は、やはり、それらの評価を単なる評価にすぎないものとして、つまり所与から諸可能性に向かっての一つの自由な超出として、受け取ることをやめない。

——前掲pp.129

 

 

われわれが他者に対してあらわれるかぎりにおいて、われわれが自分を《奴隷》とみなすことができるのは、その意味においてである。……私が奴隷であるのは、私が私の存在において、私の自由ならぬ一つの自由、私の存在の条件そのものであるような一つの自由のふところにあって、隷属的であるかぎりにおいてである。

——前掲pp.129-130

 

 

われわれは、他人から命じられさえすれば、どんな腹立たしいことでも、まったく平気で何の不平もなくやってのける場合がしばしばあるが、それは決して気まぐれなことではない。というのも、命令や禁止は、われわれが、われわれ自身の奴隷状態をとおして、他者の自由を体験するように、要求するからである。

——pp.138

 

 

対自が、「他者であらぬところのもの」であるのは、《反射ー反射するもの》という無化的なありかたにおいてである。

——pp.171

 

(続く可能性アリ)