切っ先を突きつけろ(小説)

切っ先を突き付けろ(15枚)

 

misty

 

 

 俺はまず、自分の眼前に刃が突き立てられている状況を自分の精いっぱいの想像力で再現した。なぜなら俺はあきれるほどに弱く、死の「存在」というものにつねに怯えきっているからだ。俺は死ぬことが怖い。自分が死ぬイメージをうまくもてない。それに死ぬのは死ぬほど痛いだろう、つらいだろう。なにせ自分の親知らずを引っこ抜くときのあの信じがたい重圧にほとんど耐えられないんだから! ああその痛みと恐ろしさといったら! だが親知らずを抜いただけでは人は死なぬ。死ぬことはもっと強大な痛みを共にするはずだ。俺は怖い。だから、刃が、ナイフがいきなり喉元につきつけられているという状況をとりあえず想像してみる。それはあり得ないことではないからだ。もちろん電車に撥ねられる一瞬前でもいいし、崖から足を一歩踏み出す前でもいいんだが、今回はもっとも死の恐怖のイメージを喚起するもの、刃のご登場だ。俺はほとんど先端恐怖症だし、何しろ刃というものは人や動物、命を殺すものだ。殺・伐。とりあえず殺されようとしているものとして俺を定立してみる。すると、どうだ、次の瞬時にとるべき行動……! 俺は怖い! 怖いから動く! 動く、どっちに⁉ そうだ、そうやるんだ、とりあえずつきつけられた刃を向こうにおいやるんだ、それは俺の右手をもってしても構わない。教訓Ⅰ:肉を切らせて骨を断つ。俺は俺の想像において突き付けられた刃を右手で握りしめ(瞬時に右手には紙をナイフでつつっとと撫でるような、柔らかかな痛みが出血を構成するのだ)、ぐっと掴んで相手の方にせり出す。刃を遠ざける。これだけで俺は安全だ。刃は今や眼前から離れた。その間にまた考えなくてはならない。でもそれは二の次だ。なんなら凶器の刃はまだ血塗られた右手がしっかり握っている。それを己の武器とすることもできるだろう。教訓Ⅱ 自分にとっての凶器は、相手にとっての凶器でもある。今回はこれくらいだ。死の(恐怖の)試練、思考実験。

 

 ローゼン・ヴェルフは昼下がりのベルトコンベア前で、そのようなことを思考の余興にと空想を広げていた。余興といっても限りなくリアルに、自分の死への恐怖を克服するためのイマジネーション・タイム。ローゼン・ヴェルフの前には「V」と大きくプリントアウトされた白文字のロゴが映えるダンボール箱が右から左へと流れ、ヴェルフは工場勤務用の制服を着、きつめの帽子をかぶり、他の研修生と共に工場長の大演説をもう三十分は聞いていた。暑い夏、工場には緩衝材としての広葉樹がこれみよがしにわさわさと植えられており、そこに飛びつく蝉の鳴き声はひたすら喧しかった。ここはベルヌ社管轄の物流拠点の中でもマインツというだいぶ地方(というか田舎)にある商品発送センターだった。ここに大量の商品が送り込まれ、工場員はマインツ市区画整理された番地ごとに「V」のマークの入ったダンボールを仕分けるのだった。仕分けるといっても、商品のサイズと重さによってベルトコンベアは六つ(うち予備装置が二つ)あり、それだけでもなかなか壮観な眺めだった。

 「……であるからして、今ベルリンは甚大な被害を被っていることからして、マインツ市長のゼーバルト氏が快く我々新人研修のための環境提供を快諾してくださったのでありまして……」

今喋っているのは頭の半分ハゲちらかしたベルヌ社・新人研修担当委員長のヴァーグ・コレラだった。コレラは汚らしい面の持ち主で、裏腹には見るもおぞましい内面を抱えている。女性社員の大半はこの哀れな男ヴァーグ・コレラを嫌った。演説などで一度話し出すと際限なく唾を飛ばし続けるというのも彼がほとんどの人から嫌われる理由の一つであった。

 ベルヌ社は、ドイツ全土の中で最大の流通圏と営業成績を誇る巨大ネット・ショッピング・オフィスである。二〇〇〇年頃から頭角を現わしはじめ、今ではヨーロッパをも席巻する超・コングロマリット・ビッグカンパニーとなった。ベルヌ社の新人研修は彼らが正規に入社することになる二か月前から行われる。ここでは営業セクターからブレインセクターまで、ベルヌ社が商品に関して関わる全ての業務を「一挙一動」で学んだうえで、各セクターの新しい頭領として奮起してもらう、というのが成長目覚ましいベルヌ社の新人研修における目標および狙いだった。ローゼン・ヴェルフらの新人研修は残すところあと一週間。今日は本来ならばベルリン郊外の本部流通センターで行われるはずだった、「実際に商品が発送される過程」を「一挙一動」で学ぶ日だったのだが、その場所は巨大なバスに揺られて三時間、辿り着いたのんびりした街のマインツ市内にある支部で、しらじらしい「V」マークのついたダンボール商品が長い長いベルトコンベアーに乗って右から左へ流れるのを観察するのだった。コレラの耳に触る濁声と蝉の鳴き声の不快なる壮大なハーモニーを聞きながら、ローゼンは自分の被っている帽子に染みきはじめている汗の不快感を持て余した。コレラの話はいつも終わりがないんだ。なんであんなやつが毎年研修担当委員会の長なんだろう。どう考えても若い女性社員にはやくから目を付けているためにしか思えないぜ。はやくも研修生たち同士でこのような下卑た会話が共有されていた。

 「ではこの辺で、今日このマインツ支部流通発送センターの工場長であられる、ビゼークラナッハ氏にバトンタッチします。クラナッハさん、どうぞこちらに!」

 新人研修担当委員長のコレラがこれみよがしに手を割れんばかりに降ると、びっくり、見たこともない巨大な男が現れた。あの熊、あいつがここのボスだったのか。コレラから多少乱暴に受け取ったマイクからは多少のハウリング音が聞こえる。

 荒熊、クラナッハ氏は開口一番こうヴェルフたちにつきつけた。

 「諸君、おはよう。ここはご存じの通り、マインツにある我らベルヌ社の流通センター支部である。しかし、支部であるからといって舐めてもらっては困る! 諸君は本部にある中央センターと同等の、いやそれ以上の働きをしてもらう。末端の労働を知らないものに、上に立つ資格はない。私はそう思っておる。またこのことは、社訓でもある。ベルヌ社を組織する全ての人間の労働を理解したとき、初めてその人材は上に立つことができるのだ。「他人を推して完璧に知るべし」。我が社訓の第三にこうあるではないか。このことは次の事を意味する。一、事物をよく観察しろ。空気を察知するのだ。二、推測能力……計算力、把握力、空間図式分類判断、これらの左脳的知能を優先させよ。その時初めて右脳も適切に働きだすのだ、云々……」

こんな調子だ。まるで何を言っているのか分からない。分からないというよりも、その威圧めいていて自己に陶酔しきったかのようなクラナッハの物言いがローゼン・ヴェルフにはとにかく癪に障った。こいつとは絶対に合わない、一刻も早くこのマインツでの研修を終え、本部に帰ってほんの束の間の幸せな時を同期たちと愉しく過ごしたい(あわよくば冷えたビールとありったけのウインナーを食しながら)。そうヴェルフは判断した。それからクラナッハの実に退屈な説教は十五分とばかり続いた。茶番はこれまでだ。クラナッハがマイクから離れると、一行はさっそく業務へと戻り、研修班の我々はクラナッハが指揮する元へと誘導された。

 「……であるから、輸送班から送られてくる品物をこの機械を使ってまずは検品するんだ。スイッチはここにある。はじめにこのボタンを押すんだ……」

 流通班がものものしい巨大なトッラクで運んでくる大量の荷物をほどいて、一つずつ検品。それが終わったら、品種ごとに分類する。そして、各家庭の細かいアドレスに従って荷造り。それが終わったら片づけ、次の輸送を待つ。要するに単純作業である。本来的な任務は、クラナッハのやっている現場の指揮系統にある。それは何と三日目になってようやくやるそうだ。一日目と二日目はこの単純作業の流れを体得することが研修の必須とされる。

 ローゼン・ヴェルフは実に抜け目なくきりきりと働いているように「演じた」。もちろん、彼はそれなりに必死に動いていた(動き回っていた)。荷物を解き、機械の操作にもすぐ慣れて、検品のリズムもだいぶ良くなってきた。体を細かく動かす。手を、腰を、足を。運動はいいことだ。しかしこれを一日中延々と続けるとなると話は違う。ベルヌ社はこの手の流通・運送の業務を、外部からの派遣社員仕入れて六割以上もの人員としているらしい。由々しきことだとヴェルフは思ったが、人材のアウトソーシングは今や現代企業のクリシェだ。特にベルヌ社のような超巨大企業にあっては、もはや誰が企業の人間で誰が外部委託された人間なのか全く分からない。内部と外部はずぶずぶに一本の巨大な濡れた欲望—流れで貫通されているのだ。まるであちこちに穴が開いた腐ったリヴァイアサンのようだ。早いが話ベルヌ社はできの悪いリヴァイアサンなのだ、と。

 工場長の汗臭いクラナッハは先刻のもったいぶった哲学めいた喋りの披露とは打って変って、お早くも自分の本来の醜態をヴェルフたちにたっぷりと見せびらかすことになった。まず、クラナッハは攻撃的な性格の持ち主で自分より下の者にはひたすら威圧的な態度をとる種類の人間屑だった。この男に頭の良さのパラメーターはほとんど割り振られていない。上下関係を極めるベルヌ社の中で、それでも彼が一支部の工場長についたのは、年齢のおかげでもあるが同時に上下関係の維持にたまらないほど必要な人間でもあったからだ。つまり、上にはへりくだる、下には怒号を飛ばす。ベルヌ社は完全に垂直的な人間関係を基軸とする現代の悪魔組織であった。だからこそこの悪夢のような現代に的確にフィットしてのさばっているのだ。クラナッハは濁声を遠くまで響かせることを何よりの得意技としていた。ミスには容赦なかった。おまけに彼はせっかちでもあった。仕事の流れが少しでも滞ると、彼は怒声をあげたり一人でヒステリー状態に没入していた。マインツはみんなそんな人間なのか? そんな訳が無い、クラナッハマインツという街が生み出した恐るべきゴミ屑なのだから。彼の怒声と化け物じみた笑い声の交代は、ずっと工場内を跋扈していた。しかしその中でローゼン・ヴェルフはきりきりと立ち回った。他の何人もの同期たちと比べても格段に優秀だった。そのことを内心ではヴェルフは自己欺瞞的にも誇りに思った。ヴェルフは自分が世の中でも優秀な部類の人材であることをひた隠しにはしなかった。事実、そのことで「名誉とマネー」の匂いをすばしこく嗅ぎつけて腰を振ってくる女どもも何人も寄ってきたし、ローゼン・ヴェルフと似た優秀な男たちも曖昧な微笑を浮かべてぞんざいに彼の元に寄って来るのだった。悪いことは無い。

 夕暮れ時になって、いよいよ用済みになったダンボールをまとめて片づける時がやってきた。ローゼン・ヴェルフはうっすらと汗ばんでいた。今日はこれで終わりだ。研修が終わったら! 俺はどこへ飛ばされるだろう! 女はいるだろうか、クソみたいな田舎でさえなければなあ! そんな傲慢な思いにひたりながら、流れてやってくるダンボールを手当たり次第に潰していった。潰したダンボールをきっちり十枚まとめ、ナイロンの紐で縛る……しかし、ローゼン・ヴェルフは顔面蒼白の気色をしずかに浮かべた。俺は縛ることができないのだ。幼少のころから靴ひもを上手く結べたためしがなく、自分で選べることができたらなるべくスニーカーやサンダルを履いてきたのだ。ましてダンボールを結ぶことなんて。ローゼン・ヴェルフは完全にしてやられたと思った。暑い気候のゆえか自分の手先が不器用であることすら慢心的に忘れていたのだ。しかし、周りを見ても、憐れなる子羊たちは懸命にダンボールを縛って業務を速めている。一つ、また一つ。一日分の廃棄物の完成が刻一刻と近づく。ヴェルフは自分の周りの時間の甘美なる停止を感じた。俺はこんな簡単なこともできない幼児であったのか……?

 クラナッハが立ち往生しているヴェルフを目ざとく見つけた。「おい! お前、何をやっている。業務はもうすぐ終了だぞ! はやく終わらせてしまえ!」ヴェルフは怒号するクラナッハをちらりと見やった。クラナッハは禿げた頭を布製のキャップで隠し、ぞんざいな制服を重たい体の上にぴちっとはめ込んでフォークリフトの上にふてぶてしく乗り上げていた。「お前だよ、お前! 分かってんのか?」 ……おい、俺は幹部候補の人間だぞ? マインツごときの支部で現場にかかわっている人間にお前呼ばわりされるような人種じゃあない。クラナッハみたいな屑と俺は違うんだ! ヴェルフは鋭い目つきでクラナッハを睨み返した。

 「早くやれって言ってんだろ! 減点するぞ! それとももう帰るか、泣きながら、お坊ちゃん? ああ?」

ヴェルフは本格的に苛立ってきた。しかし、クラナッハの安易な挑発にそうやすやすと乗るわけにはいかない。俺には裕福な暮らしが待っているんだ。そのためにはたとえゴミ屑のような企業にあっても上の方にいき、美人な女を弄び、優秀な男たちと毎晩遊びながら、この世の中の流れに逆らわずとも酔い痴れてやがて自分のちっぽけさを忘れてやるんだ。それがいい、自分のちっぽけさと惨めさにはもう散々飽きたんだから……! そこでヴェルフは正気に返り、とにかく紐をカッターナイフで切ってダンボールの周りにくくりつけた。紐の半分のところでダンボールを裏返し、片方の紐っきれをもう片方のひもっきれに結びつける。たちまち、ダンボールがずれる。ヴェルフは慌てる。そしてまた紐をセッティングする。以下同様。紐は不器用に結ばれた。明らかにヴェルフの仕事の能率は悪くなっていた。ひっきりなしに圧しよされるダンボールの数々。周辺の羊たちはものすごいスピードでダンボールをまとめながら、やがてヴェルフの孤独で悲惨な状況に気付いては静かにそっとほくそ笑んでいる。ヴェルフは恥を感じて、顔面を今度は真っ赤に照らした。

 「お前、下手くそだな! ちょっと見てろ!」クラナッハの濁声がヴェルフの後背から飛んできた。クラナッハはフォークリッフトを降り、ずんずんとヴェルフのところにやってきて、突然ヴェルフの左手をむんずと掴んだ。その暴力的な痛みにヴェルフは激しい怒りを覚えた。

 「なんでこんなこともできねえんだよ! こうやるんだ! こんなことおうちでも散々やっただろうが! え、ママが! お前にはママがいないのか? いるだろう、パパのお手伝いをしなかったのか、え、坊ちゃんよ。こんなこともできないようなら、お前は失格だよ。しばらくこの支部で残務することも検討だわい!」

 

 ……何かが、切れた音がした。いやそれは、ヴェルフの内心でカチンと美しく鳴った音でもあり、ヴェルフがクラナッハの手を振りほどいて思わず掴んだ太めのカッターナイフを奴の顔面向けて振りかざした空気の音でもあった。ナイフの刃先はクラナッハの顔面の皮膚をかすめて、その醜いイボだらけの皮膚からは赫い血がすうと流れていった。

 「てめぇ、何をしやがる!」 さすがにクラナッハは動揺を隠せなかった。突然のヴェルフの奇行にどんくさい頭もおいついていない。「おまえ、何をするんだ! この俺に向かって! 懲戒の対象になるぞ! ええ?」クラナッハは怯えながらも依然として自己の優位と野蛮さを誇示しようとしていた。周りの研修生は皆一様にヒッと声を上げて、ヴェルフとクラナッハがやりあっているところから一斉に離れた。空々しい叫び声もちらほら上がった。クラナッハは自己の顔面をおもむろに拭った。その薄く流れた血は解体されたダンボールの塊にもポタポタと落ちていった。赤く染まる、紅く。人間には血が流れている。そのことを考えると、ヴェルフは自由なる内心において極度の興奮状態に陥った。俺は、もう逃げない。こいつを倒してやる。俺に邪魔立てをするものは今後一切容赦なく倒してやる。俺は自分自身を守る。俺への攻撃、俺に対する悪から、自分を守る。俺は悪になるのだ。

 ヴェルフはカッターナイフをずっとつきつけていた。怯えた顔のクラナッハもまたそこを動かなかった。さぁ、刃をつきつけろ。考えろ。そして動け。悪はお前を待っている。(了)