時間喰いのモービーディック(小説)

時間喰いのモービーディック

misty

 

 二一〇一年、僕の中で世界中の街は海水に浸されていた。僕の予想だが、おそらく二十一世紀の何十年間で破壊され続けた地球環境が海水面の上昇をもたらし、その一方で人々は電脳空間のみに増々のめり込むことになった。いわば、人間はそれほど物質を必要としなくても生きることが可能になったのである。彼らは自分たちの住処を各々のウェブスペースに書き込み、登録し、社会生活上のあらゆるコミュニケーションをそこから引き出した。こうして人間が必要とする以前の地球環境は半分以下になったのである。

 電脳空間上では新しい事態も生じていた——人間の生活史上の更新があまりに速いため、放置されっぱなしの過去の情報履歴はしばしば亡霊として物質界に復活した。その一例がフランケンシュタインである。フランケンシュタインという怪物は十九世紀はじめ、小説家メアリー・シェリーの手によって生み出された。地球が二十世紀を迎えると、映画という一つの芸術ジャンルを開拓した人類はこぞってこのフランケンシュタインを映画の題材に取り上げた。そうして二十二世紀の今、現に僕の物質上の生活エリアの統治者となっているのは四角形の頭部をした物質上可能となったフランケンシュタインの実在そのものである。このフランケンシュタインは物質界の街のエリアHを支配している。最もエリアといってもその区画はLまでしかない。それに怪物や超人どもはどうやら自分の生みの親である人間にはさほど興味が無いらしく、残された地球の覇権を好んで争い、怪物は怪物同士で戦っている。だから人類の生活はさほどこれらの物質界に影響を受けず、依然として怠惰なまま電脳空間を拡大し続けている。ほかにエリアE周辺を徘徊しているのは、これまた人気キャラクターのドラキュラたちだ。ドラキュラのサイズは人間とほとんど変わりないが、その凶暴な性格と繁殖力の強さのため、集団をなして他の怪物たちと拮抗している。

 第二次世界大戦後、想像界上の怪物や超人を産み出し続けた巨大産業として、言わずもがなのMARVEL COMICS社(以下マーベル社)がある。特に、二十一世紀に入ってからのスパイダーマン、ハルク、ワンダーウーマン、アイアンマン、トランスフォーマーといったキャラクター達は相次ぐ映画化を呼び起こし、またその映画の延長線上でお互いが豪華な共演を果たすという事態も喜んで受け入れられた。そのようなキャラクター達は、海水に半分以上浸された二十二世紀の物質上の地球エリアを実在化された亡霊として徘徊している。

 以上、フランケンシュタインやドラキュラ、スパイダーマンやハルクが実際に地球上を跋扈するのが、二十二世紀に飛ばされた僕の目の前のリアルである。しかし先ほども言ったように、彼らはあまり人間の生活に干渉してこず、また僕たちもほとんど電脳空間で労働と余暇を過ごしているため、実際上の衝突や事件の危険性はほとんど無いといってもよい。全地球上で、僅かに観測され、その報道が僕たちの電脳空間上のメディア一覧にごくたまに流れるに過ぎない。

 二一〇一年一月一日(元旦)、僕と僕の妹は五階までが海水いっぱいに浸された古いマンションの、最上階に二人で暮らしていた。このマンションは日本の第二次世界大戦後の高度経済成長期に大量に増産されたタイプのマンションの型らしく、台所にはIHヒーターが導入される前の珍しいガスコンロが残っている。でも、二十二世紀の僕たちはガスコンロもIHヒーターも特に使わなくて良いのだ。一部に、オールドタイプを好む人が、原材料となるほうれん草や牛肉を高価な値段で入手し、自ら調理して作っている裕福な階級があるが、基本的には温める必要も冷ます必要もない完璧なシリアルを配達してもらうだけですべてが事足りる。僕たちは意識の半分以上を電脳空間に預けているため、本当に物質界に頼る割合は少ないのだ。それでも、意識を眠らせる必要のある睡眠、そして食事、これだけは電脳スイッチを切って僕たちの身体が登録されている住居で行う必要がある。

 僕は今仕事をしていない。そしてその代わりにというわけでもないが、あまり電脳空間にも参入していない。何をしているかというと、水面の濁ったこの雑居ビルの最上階の部屋で、本というものを読んでいる。今読んでいるのは日本の小説家、大江健三郎の『宙返り』という作品だ。この作品は少なくとも二人以上の視点から重層的に描かれているが、中心となる話は祭りの後とでもいった内容で、「救い主」と「預言者」からなるある新興宗教団体が一九九〇年代の日本においてオウム真理教などとともに勃興し、しかし彼らはその宗教団体の発展の途中で「やーめた」と宙返りの宣言をする。それからしばらくたって、「救い主」と「預言者」は名前を変えて「パトロン」と「ガイド」という関係性に新しく生まれ変わり、また一つの「宙返り」を行って登場人物たちを巻き込んでいく……という内容だ。本には実にこのような途方もない情報量、言い換えれば考えたこともないような不思議な物語と琴線に触れるような文章が宝物のように詰まっている。二二世紀に生きる人類の大半は書物を完全に情報量のあるデータベースとして電脳空間に押し込めることに成功したが、僕みたいに珍奇な人間は今でも「古書」と呼ばれる一世紀以上も前の作家たちが書いた本を集めて、時には配達までしてもらうこともある。

 「あー疲れた……」

そう言って、隣の小さなノート型のパソコンから意識のバルブを開け放した妹が物質界に帰ってきた。妹は小さな会社で事務の仕事をやっている。パソコンに繋げば自身のアバターがアイコンとなって活躍してくれるので、わざわざ物質界で身をただしたスーツなどに着替える必要もない。「お兄さん、また変な本の読書? 飽きないねぇ。私、シリアル二日分食べよっと、めっちゃお腹減っちゃった」そう言うと後ろで長い髪の毛を一つに束ねた妹はリラックスした寝巻のまま起き上がって、冷蔵庫に向かった。僕はそれまで空調もつけずに部屋の窓を開けて涼んでいたので、とりあえず窓を閉めようと思って『宙返り』を読んだところまで付箋をつけて起き上がった。

 「あれ? フランケンシュタインだ」

僕はたちまち緊張した。このH区画を統治している、頭に大きな釘がささったままの怪物フランケンシュタインが、どうやら近くにいるらしい。フランケンシュタインは何やら突っ立ったままで、何かを待ち構えているようにも見える。

 前述の通り、想像界現実界は二十世紀末のインターネット次元の登場により回路が開き、人間の想像の産物でしかなかったスパイダーマンとかドラキュラだとかいった諸存在は現実の世界に実在として流入してきている。今は僕たちのアパートの窓越しに、何やら挙動を不審そうにしているH―8地区担当のフランケンシュタインが跋扈しているのだ。彼は海水に浸った家屋の瓦礫の上に立っており……スパイダーマンだ! フランケンシュタインスパイダーマンが交錯している。しかし、と僕は思った。スパイダーマンは僕の記憶によるとA―2地区の統治者であり、日本を含むアジアのH地区になんて滅多にこないはずだ。一体何があったのだろう? 普段は正義感を丸出しにして悪者のドラキュラやジョーカーといった怪物たちと戦っているスパイダーマンは、その腕から解き放たれる自由自在な蜘蛛の糸を操って、フランケンシュタインが立っているところに鮮やかに着地した。

 一体何が起こっているのだろうと思うと、今度は地震が起きた。ちなみに、現実界の身体がやられるとたとえ頭脳をネットに連結させていてもゲームオーバー、つまり死亡である。現実界地震津波などが起こって身体が損傷した場合、その人は確実に死ぬ。

 「真由! 地震だ!」「えー嘘嘘―!」即席のシリアルを持ったまま妹の真由が飛び出してきた。

 「うそっ、あいつら……スパイダーマン? とフランケンシュタインがいるじゃない!」

 「しかし、あいつらがこの地震を起こしているわけではなさそうだ……それに……地震というより、地響きに近いといったような……」

三階部分まで海水に浸っている僕たちのアパートメントが静かに揺れた。窓の向こうでは、スパイダーマンフランケンシュタインは何やら非常に動揺している。

 「ウォォォォウォォォォォウウウウウウ」

 「くそっ、俺たちまで呑み込まれる!」

フランケンシュタインスパイダーマンが二体してその逞しい体から大きな唸り声をあげたとき、果たして地響きの正体が現れた。それはあまりに大きすぎる巨大なクジラ……まさに映画や小説でしか見たことのないような、通常現実界の海水で生きているとされる(というのも、ここ二十二世紀では海の生態系はほとんど変わってしまっている)鯨の何倍もの大きさをしているのだ。そのうち、ただ事態を遠巻きにしか眺めることのできない人間の僕と真由に変わって、正義感をこの場面でも演出しようとするスパイダーマンがわざとらしい大きな声を出した。

 「モービーディックだぞ……『白鯨』に出てくる大きなクジラがやってきたぞ!」

モービーディック。それは、十九世紀の孤独な小説家、ハーマン・メルヴィルの書いた『白鯨』に出てくる巨大な鯨の正体である。詳しいことは『白鯨』にゆずりたいが、この作品も時を超えて二十世紀と二十一世紀に何本か映画で上映されることになった。しかし、今僕たちが見ているのは、そのあまりにでかすぎる強烈に開かれた上顎なのだ。それはむしろ『白鯨』というより、僕が幼い頃ネットを検索して見つけた映画『ピノキオ』のラストシーンに出てくるこれまた巨大な鯨の前顎を思わせた。とにかくそのモービーディックは海水を真っ二つに割りながらどんどんとこちらに近づき、どうやらその標的をフランケンシュタインスパイダーマンに定めているらしかった。ということは、スパイダーマンはモービーディックから逃れてフランケンシュタインの統治するH―8地区までやってきたのだ。しかし、今にもモービーディックはスパイダーマンを、そして同時にフランケンシュタインをも呑み込もうとしていた。もとい大きさが違いすぎるのだ。

 「真由! ここから逃げよう! できるだけ遠くまで!」

 「ええ! でもどうやって」

 「ボートを使って、あとは成り行きに任せよう! さあ出るぞ!」

そう言うと僕は真由の手を引っ張って(彼女が大事そうに抱えていたシリアルは見事に床の下にぶちまけられた)、急いで鍵を開けて外に出た。非常時用に各家庭には現実界の海水を移動できる道具が地球政府から無償で配布されている。三階まで階段を使って降り、僕たちに割り当てられたボートの上に載って、エンジンをかけた。幸い、海水をそっくりそのまま利用して発生する電磁波のみで動く様式のボートだった(それでもまだ旧式なのだが)。

 ある程度のところまで行くと、スパイダーマンたちの様子が気になって後ろを振り向いた。なんとも彼らは懸命に戦っていた! まずはスパイダーマンが糸を出しまくってモービーディックをがんじがらめにしようとし、フランケンシュタインはその並外れたパワーのある拳でモービーディックの体ならどこでも構わず打ちつけていた。モービーディックは確かにダメージを受けており、さらにスパイダーマンの編み出す糸によって次第に身動きがとれなくなっていき、苦戦していた。しかしその目つきは凶暴で、一つも屈しないという禍々しき悪意を光らせていた。

 しかし、時間も時間だった。やがてモービーディックはその巨大でつややかな体を意外にも器用にくねらせて、蜘蛛の糸による包囲網を破きはじめた。彼が体を揺らすことで、フランケンシュタインの足場も覚束なくなり、攻撃は外れ、ともするとモービーディックの巨大な体に圧し潰されそうになった。

 「おい、フランケンシュタイン、もっと攻撃を加えろ! やつの両目を狙うんだ!」

 「やい、スパイダーマン、お前だってもっと糸を強固に張ってくれなきゃ、こいつの動きが止まらねぇだろうが」二人の(想像界現実界の)スーパースター及びヒールはお互いを激しく罵り合った。ついにモービーディックはスパイダーマンの包囲網を噛み砕き、フランケンシュタインに尾ひれを使って強烈なパンチをかませるまでにいたった。もうこうなったらスパイダーマンフランケンシュタインも逃げるほかはなかった。やがて彼らは僕と真由の後を追うようにして、ひたすら海面の上を走り続けた。

 モービーディックは後から追ってきた。それまで何のダメージも受けてないといわんばかりの、豪快なスピードで。街は彼の操る地響きと割れる海水でもみくちゃになった。そして、不思議なことが起こりはじめた。

 モービーディックが通ったあとの街は、時間の砂がかかったかのような様相をなし、海水面は低下し、元の二十一世紀型の高層ビルディングへと姿を変えたのだ……思えば、モービーディックが通っていくところは全て、海水面が低下し、街並みは二十一世紀に戻っていった。まだ世界がぎりぎりのところで美しい自然環境を残していた頃の地球だ。そのようにして、今やモービーディックは僕、真由、フランケンシュタインスパイダーマンに近づきつつあった。はじめにやられたのはスパイダーマンだった。彼が最後に出した糸もモービーディックの上歯によって簡単に食いちぎられると、そのままスパイダーマンはモービーディックの胎内に呑まれていった。そして、味としてはいかにも不味そうなこわばった身体のフランケンシュタインもあっけなく呑み込まれていった……もう駄目だ、この頃には僕と真由はボートを乗り捨てて低くなった海水をパチャパチャと全速力で走って逃げまわったのだが、やがて体力もついえた。モービーディックの背後は美しかった……二十一世紀型の高層ビル、東京駅という場所にあった丸の内ビルディングが、夕日の光を反射している……その景色の美しさを懐かしいと思った瞬間、僕はモービーディックの胎内に乱暴にめりこまれていった。

 

 ……此処はどこだろう、と僕の呟きがあたりにこだました。気が付くと、僕は暗い洞窟に灯りもなしに立っていた。後ろを振り返ると妹の真由がいた。妹は僕の姿を見て安堵したようだったが、そこに声はなかった。此処はどこか。さしずめモービーディックの胎内か。僕は妹の手をとって暮明の洞窟を歩いて行った……ピチャピチャと音がする。岩が水滴で濡れている。そこまで浸水しているわけではない。十分に歩ける距離だ……洞窟というより、深い森の奥に来た感触があった。それはコンラッドの『闇の奥』や、フェルディナン・セリーヌの『夜の果てへの旅』に出てきそうな類の闇深い森の僻地であった。実際に、木々が、二十二世紀となってはとうに失われていたあの自然がここにはあった。なんという懐かしい気持ち、そして清々しい空気なんだろう! 空気の健康さというものを初めて僕は味わった。なおも森は続く。すると、面白いことに、さきほど僕たちと一緒に呑み込まれたスパイダーマンが、今度はスクリーンとして、どういう仕掛けかは分からないが樹々が生い茂る上空で照明を受けながら、あのマーベル社が台頭するきっかけとなった三本のムービー、「スパイダーマン」「スパイダーマン2」「スパイダーマン3」の映画のダイジェストが流れた。彼らは再び創作物に戻されてしまったのだろうか? ここでは時間が逆転していた。いや、一歩一歩進むごとに、時間が戻っていくのだ……。「時間喰いのモービーディック」。それは、時空間を歪ませ、何がどう間違って転んでしまった二十二世紀の街に現れ、もう一度正しい方向へいかんとする時間を形成するのかもしれない。時間はゆっくり、ゆっくりと深い森の中で逆再生されていった。僕と真由は手をつないだまま、さらに闇の奥へと歩を進めていった……(了)