マゾヒズム・契約・儀式①

 

■はじめに

  以下はドゥルーズザッヘル=マゾッホ紹介』(河出文庫、堀訳、2018)を部分的に読んでまとめた文章である。「マゾッホの小説的要素」―「法、ユーモア、アイロニー」―「契約から儀式へ」という三節である。

 

 

  この三節におけるドゥルーズの中心的な課題は、「マゾヒズムをいかに適切に定義づけられるか?」という問いである。これに関し、より不十分であるマゾヒズムの印象や定義づけがあることを仄めかしている。

 というのも、ドゥルーズは『マゾッホ紹介』の冒頭近くにおいて、マゾッホ(の文学作品)は忘れ去られているのに、「マゾヒズム」という言葉だけが一般的になってしまったことに大いなる不満を漏らしている。さらにドゥルーズはもう一つの不満を投げかける。それは、サディズムマゾヒズムという相補性(ペア)の思考枠組みでもっぱらそれらが語られてしまうこと、これはサディズムマゾヒズム、ひいてはマルキ・ド・サドザッヘル=マゾッホを理解することにおいても残念なことであるとドゥルーズは述べている。

 サディズムには独自の内容があり、さらにマゾヒズムにも独自の内容がある。それらは「非対称」の関係にあり、「相補性」にあるわけでは決してない。そのことを念頭に入れたうえで、さてマゾヒズムを中心として記述していこう。もちろんサドをめぐる議論も大いに盛り込まれている。

 

ドゥルーズによるマゾヒズムの定義第一段階

 さて、もう一度『マゾッホ紹介』のどの部分(どの節)を対象としたかを銘記しておく。

 ▶マゾッホの小説的要素

 ▶法、ユーモア、アイロニー

 ▶契約から儀式へ

 の3節である。そしてこの3つの節において中心的な課題となっているのは先ほども述べたように、「マゾヒズムはいかにして(適切に)定義づけられうるか?」である。

 ドゥルーズは、はやくもこんなことを言う。「”快―苦”という思考系列ではマゾヒズムを定義づけるのに不十分である」、と。つまり、一般的にはマゾヒストは次のような(誤った)イメージを持たれている。曰く、”苦痛の中に快楽を見出す倒錯者”である、と。しかしこれは何重にも間違っている。そのことをドゥルーズは長きにわたって論証し、これに代わる新しい定義を提唱していく。

 まず、「快楽―苦痛」の思考系列での定義がなぜ不十分なのか? ドゥルーズは、それは見かけだけに過ぎないというようなことを言う。もちろん、マゾヒストは、女主人に痛めつけられる(苦痛)ことによって、二次的な快楽を覚えるには違いないと認める。しかし、それは「真の快楽」ではない、せいぜい表面的な快楽にすぎないとするのである。マゾヒストはもっと高次の快楽を手中にできる者のことだ、と。

 そこで、定義の第一段階として、ドゥルーズは「待機―宙づり」という思考系列を持ち出してくる。こうである。「マゾヒストとは、快楽を待機することによって純粋な宙づり状態に自分の身を置くものである」、と。これも実はまだ精確な定義ではないのだが、まず「待機」や「宙づり」というのがどういうことかを説明しなければならない。マゾヒストは、「苦痛」の中で「待機」することによって、快楽を「先延ばし」にしているのである。そして、重要なのは、苦痛は、快楽の「原因」ではまったくないということである。おそらく、ドゥルーズの考えを噛み砕くに、マゾヒストの苦痛と快楽は二種類あるのだ。そして、ドゥルーズが明らかにしたいのは、より深い苦痛と、真の快楽のペアなのである。「深い苦痛とは何か?」「真の快楽とは?」 これが、後半によって明確に答えられることになるだろう。

 ここで言えることは、「苦痛の中を待機し、真の快楽を先延ばしにするのがマゾヒスト」という第一段階の定義は、半ば意図的に/強引に「快ー苦」という思考系列を混ぜ合わせているために、不純である。快楽、苦痛という概念に頼らず、それから独立した定義をドゥルーズは探し出していくことになる。

 

■《法》の時代区分 (←ここからめちゃめちゃ重要かつオモシロイ)

 

 ドゥルーズはここで、マゾヒズムサディズムに精確な内容を与えるにあたって、《法》論に参入していく。曰く、マゾヒズムマゾッホは「契約」と呼ばれるものにつながっており、サディズムとサドは「制度」とつながっている、とドゥルーズは言い出す。そのあいだにあるのが、《法》である。ここでは契約や制度について述べる前に、先に《法》の本質論について述べておきたい。

 

 《法》とは現実の法律(条約、憲法民法など)や法規範(政令、慣習法、条理、マナーなどなど)などの総体のことである。ここは押さえておかなくてはならない。さて、《法》の形象にはドゥルーズによると大きく2種類あるらしい。それが、

A 古典的な法

B カント以後の法

である。この二つの《法》の形象はことごとく対立している。それをこれからみていこう。

A 古典的な法……ソクラテスプラトンといったギリシャ時代に特徴的な《法》の形象である。このとき《法》は、《法》よりも上位にいるものがある。それが《善》、最高善としての《善》である。どういうことか。《善》とはプラトンの《理念》としてのそれなのだが、それは本論とはさしあたり関係がない。それよりも、上位にある《善》は、《法》の内容を規定するのである。つまり、《善》=正義、平等、友愛などの理念内容が最上位のものとして定まっており、それに従うように《法》は制定されるのである。つまり、《法》の最終根拠(法が機能するための最終担保)はこの(《理念》としての)《善》である。ここではドゥルーズも述べている「ソクラテスの死」が良き例となる。ソクラテスは、社会(司法)が決定した「死刑宣告」をよしとし、自ら死んでいった。ソクラテスは《法》の掟に従順に従ったのである。ソクラテスは、社会のルールに従うことを「承認」した。なぜなら社会の掟に従うことが、《善》いからである。このように、古典時代の《法》は最終根拠として上位にある《善》と連携し、そこから内容を規定されていた。そして、その規定は、市民から承認を得ることによって、実効的に機能していたのである。

 

Bカント以後の法――『実践理性批判

  ところがカントの時代、近代において《法》の境位は一変する。次のドゥルーズの記述を見られたい。

 

 『純粋理性批判』におけるカントのコペルニクス的革命とは、認識の対象が主体の周囲をまわるようにすることであった。だが『実践理性批判』の革命とは、《善》が《法》の周囲をまわるようにすることであり、このことのほうが遥かに重要なのである。おそらくそれは世界における重要な変動を表現していた。

――ドゥルーズザッヘル=マゾッホ紹介』pp.126

 カントの認識論的転回をごくおおざっぱに説明しよう。彼は主体の認識によって客体たる対象の現れが発生し、その現れこそが(人間=主体にとっての)世界であると考えたのだ。その意味で、中心には主体がおり、その周りを客体である対象がちらつくという「構成」に変化させた。そして、カント以降、議論の中心はこの主体の認識や理性の能力に焦点が当てられていくことになったのである。ドゥルーズは実に簡潔な書き方で、《法》と《善》の関係の変容を描く。古典時代では、中心に(最上位に)《善》が位置し、その円環を《法》が位置していた。カントの『実践理性批判』によって、転倒が起こった。《法》が反対に中心に/最上位に置かれるようになり、《善》は最上位の境位を明け渡したのである。

 このことでどんなことが起こるか? 《法》が《善》=正義、平等、愛などの内容を規定するように変わったのである! 法至上主義とも言える。しかし、この場合の《法》は単に形式的なものに留まり、その意味で空虚である。しかし、力(権力)を得た《法》は、議院内閣制がまさに象徴例であるのだが、この授権を得た《法》こそが、正義の中身、平等の中身などを規定していくのである。プラトン的な《理念》としての《善》は近代において消失したのである。

 

■サドと制度

 

思ったより長くなってしまったので、「マゾヒズム・契約・儀式」は二回に分けようと思う。この一回目の記事で最後に話しておきたいのは、サディズムの一つの重要な「性質」である。

 初めに言っておくと、サディズムには《制度》なるものが結びついている。ちなみに、第二回の記事で明らかにされるのは、マゾヒズムには《契約》なるものが結びついているという事なのだが。《制度》とは何か。マルキ・ド・サドは、カント/近代以降の《法》を激しく憎んだ。というのも、《法》が善悪(道徳)を決定づけるからだ。《法》はおそろしい。第二回の記事でも触れることになるが、《法》の効力の名宛人は、その集団内の「全ての」主体に「及びうる」。《法》は一般的なのである(一般効、第三者効とも呼ばれる)。それゆえサドは、「隣人の情動などは、私にとってはどうでもいいことだ。なぜなら、隣人の情動(感情)は私の情動(怒り、憎しみ)などによって抑制されるかもしれないが、《法》がひとたび現れるとき、私の情動も隣人の情動も等しく破壊してしまう(ほど強力だ)」といったような事を述べている。 

 では、《法》を憎むサドがとった戦略とは何か。《制度》を対抗概念として持ち出すことである。《制度》はもちろん法制度のことではない。ある意味、《制度》は《法》よりも強固である。《法》は(改正などによって)可変的な側面を持つが、《制度》はより恒久的である。しかし、サドの《制度》はそのようなものにとどまらない。

 

 「暴君」という存在者を議論の俎上に乗せてみよう。古今東西、特に王政や貴族政において暴君はどの時代にも登場しては、悪政を働いてきた。ところで、暴君はいっけんアナーキー(無秩序)な存在に「みえる」。しかしそれはまやかしである。サドによると、暴君はむしろ《法》と結びついている。暴君は《法》に依存しているのである。実際、暴君は既存の法制度を活用したり改変したりすることによって、その暴君たる真価を発揮する。おそらく、無秩序な為政者として振舞っただけでは、暴君は半分の「権力」もかざせないであろう。暴君は《法》の残酷さに守られることによってはじめて開花する。暴君は、《法》と結託する存在なのである。

 

 これに対し、《制度》とは、純粋な「アナーキー」なのである。《制度》はアナーキー的でしかありえない。それは、旧制度と新制度の「あいだ」でのみ発露するようなシロモノである。しかし、そのような儚い性格だけをサドは考えていたわけではない。《制度》は、古典時代の《法》をひねくる(別の形で復活させる)。《制度》は、その上位に、《悪》たるの《理念》をくれてやるのだ。サド的な《悪》が、この《制度》を奮い立たせる=授権する。これによって《制度》は根拠を持ち、偉大な悪の力を発揮することができるのである。これがサドの戦略の全体像である。

 

 マゾヒズムに対応する法概念は、《契約》である。次回の記事でそれをみていこう。

 

今回のまとめ……

 

・間違ったマゾヒズムの定義→「苦痛の中に快楽を見出す倒錯者」

ドゥルーズマゾヒズム定義(第一段階)

「マゾヒストとは、苦痛の中で待機し、快楽を先延ばしにすることによって純粋な宙づり状態に自身を置く者のことである」

・古典時代の《法》= 上位に《善》がある。《法》は《善》=《理念》によってはじめて内容を与えられる。《善》ありき。

・カント以後の《法》= 上位に《法》がある。 《善》は形式的にすぎない空虚な《法》によってはじめてその内容を与えられる(!)

・サドの制度 《制度》とはアナーキー(無秩序)なもの。そして《制度》の上位に《悪》=《理念》がある。この《悪》が《制度》に内容を与え、無秩序なものにしていく。

・《法》は一般効力(第三者に対しても等しく及ぶ)をもつ