神の回帰、あらゆるものが崩壊する時代に②

  20世紀の文化人類学者のレヴィ=ストロースは主著の一つである『悲しき熱帯』においてこんなことを書きつけている。曰く、「世界は人間なしにはじまったし、人間なしで終わるだろう。」この言葉ほど重いものはない。脱人間中心主義的な現代の思想の予見であったし、実際現代の思想状況は「人間なしで」の思考に傾きつつある(その意義はともかくとして)。

 

 また、フーコーも『言葉と物』でこのようなことを書きつけている。「人間もまた砂上の塵のように消えていくであろう……」 

 

フーコーレヴィ=ストロースの言葉は共鳴しあっている。前回記事の僕の主張では、人間は知全般を、原理的に失いつつあるという言葉で締めくくった。

 

理性が崩壊している。正義が欠けている。愛が無い(足りないでもよい)。真理・真実というものはない。

僕はひとまずユマニスム(人文主義)と実存主義サルトル)の立場をとろう。人間学である。その立場から考える場合、「知」は人間の本質である、と僕は言いたい。ではその「知」とは何か。単なる知識のことか。そうではない。

 知識は、言葉と密接に絡んでいる。人間は言葉を話す動物だとはよく言われる哲学の箴言である。知識は言葉の操作によって獲得される。しかし、知識を得ることだけが人間の活動ではない。

 知を有するものとしての人間。それはどういうことか。理性主義者であれば人間、というわけではまったくない。むしろ非理性、たとえば狂気や非行といった属性を持つ人間の立場にも積極的に肯定していくのがサルトルという人間であったはずである。

 理性・正義・愛・真理の四つ組が「知」であると言いながら、このへんをまだうまく言語化できていないので、少し話の方向を変える。

 

僕は今、パキスタンの作家であるムハンマド・イクバールの『ムーサーの一撃』という詩集を読んでいる。

 

アジアの現代文芸 パキスタン10 ムーサーの一撃

アジアの現代文芸 パキスタン10 ムーサーの一撃

 

 

イスラム圏内においては「強い」信仰者が多いことは周知だ。信仰は現代においてもまだ根強く続いている。イクバールもそのうちの一人だ。ムハンマドを崇め、アッラーの神を信仰している。そのことはその素朴で情熱的な字句からも長句的にまで伝わってくる。では、「強い」信仰の内部にいる人の声は、僕みたいな無宗教の読者にもきちんと伝わるのだろうか? これはよく分からないが、僕は少なくともイクバールの詩を読んでいて、どんな苦悩が描かれているかを想像する。多分、詩人は神と人間の間の揺れ動きに苦しんでいる。強い信仰にあり、絶対的な神の信仰の下に生きながら、彼はそれでも「人間」としての生活、社会活動、政治までを広く見渡す。宗教はここにいたっては個人の魂を救う領域にとどまらないのだ。

 前記事での「宗教」や「信仰」という言い方は、赤毛のアンが毎晩寝室で神様に祈りを捧げるように、個人の領域において自身の魂の「救済」のために行われる活動を中心とするものとして僕は書いていたが、宗教は人類全体の希求ももちろん含んでいる。キリスト教はそのような経緯が強い。宗教は集団的なのだ。その意味で宗教は政治なのである。スラヴォイ・ジジェクは「宗教が政治なのではない。政治が宗教なのだ」というパラドックスを『絶望する勇気』の中で書きつけているが、これは「宗教が政治である」ことを特に否認しているわけではなかろう。むしろ、宗教=政治 の概念を示唆しているのである。宗教が個人の救済にとどまらず複数の人間(共同体)につきものの現象である限り、宗教は政治であらざるを得ないし、逆に政治も宗教的なのである。昨今の政治現象は近代以降に現れた国家現象に過ぎない。

 

ところでイクバールは先ほども書いた通り、詩作の中で、神への信仰と人間社会へのいら立ちの間で揺れ動くさまをストレートに表現している。葛藤状態。彼はそれほどまでに、「実存主義的」に生きているに違いないのだ。宗教の内部にありながらなお、実存主義を生きている。実存主義と宗教は無関係どころか、強い関係で結びついている。それは「人間の人間への信仰」なのかもしれない。

 

 しかし、僕は盲目は避ける。人間は人間に期待してよい。しかし、過度な期待は、自己中心的にすぎない。ナルシシズム、現状肯定主義に陥る危険性を胚胎する。人間の、人類への信仰。これをどう考えるか。神学と実存主義はそこにかかっている。

 中世の神学は、基本的に人間の(神への)従属的な立場を説いた。実際には教会があまりに人間的にすぎる権威を持って政治システムを作っただけのことであるが、ともかく理論的には、中世においては人間の主体性は重視されていない。近世のデカルト主義などの精神においても、まだ「神優位」の発想は薄く残っている。まだ神は生きている。

 

 僕はイクバールの情熱的な詩を読みながら思う。「神ありでも、現代の人間はやっていける。神がいても、いなくても、どのみち人間の人間に対する信仰をこそ批判するべきなのだ」と。その意味で、人間批判を人間解体にまで進めていく現代思想の状況は多少危険なところもあるが、人間批判のために哲学はあるべきである。僕は「批判精神」をこそ、僕の絶対的な信仰対象としよう。僕はデカルト主義者でもある。デカルトの何を信仰しているか。デカルトの方法的懐疑の精神である。どこまでも目の前にある事物や常識であることをとりあえず疑ってみること。これこそが、人間の特徴なのではなかろうか。人間の人間たる所以は、方法的懐疑=批判精神にこそあるべきなのではないか。

 

次回に続く。