4月を振り返って(シビアめな日記)

 

 5月からは元号新しく「令和」になるという(実際なるのだが)。だが、世間のことはひたすら僕から遠いようだ。遠くて、しかし確実にねっとりとした手段で僕の生活や労働を脅かしてくるもの、感覚や僕の知性に対してしばしば一方的な暴力をふりかざしてくるもの。それが僕にとっての「世間」の概要だ。つまり、僕は「世間」と戦争状態にある。

 

 世間とは君の事だ、と小説に書きつけたのは有名な太宰治だ。僕は『人間失格』を16歳の時に読んだが、世間とはとりもなおさず目の前の敵対してくる人間の事であり、その人間は時として生身の感情を持ち、時として不定集合体の「大衆」と化して、社会学者の大沢真幸が好んで出す「第三者の審級」よろしく僕のことを監視し、もしくは「軽度の」審判を下してくる。大衆、世間という概念は非常に厄介で、暴力的ですらある。なぜなら、世間とは僕の家族の事でもあり、僕の友達の事でもあり、TwitterのTLの雰囲気(全体化されたものとしてのTwitter)のことでもあるからだ。

 

 要するに、世間は僕を脅かすものなのだろう。個人を脅かすものとしての暴力装置。それすなわち、フーコー的な権力関係の網の目に張り巡らされた、目には見えない不可視の(ミクロ)政治力学の前線なのだ。

 

 まぁ、ここまでは戯言だ。僕は4月に入ってから非常に調子を崩した。3月の終わりに、ずっと楽しみに待っていたTwitterで仲良くさせて頂いている人たちとのオフ会があり、行った場所で古本をバカ買いするなど、もうとにかく幸せだった。ある意味、オフ会が3月までの最大の楽しみだったので、旅行から帰ってくるとすごく疲弊していた。

この疲弊のおかげで、読書がしばらくできなくなった。それには、自分が買ってきた本があまりに多くて、いよいよ積読もここまできたかというくらい、部屋中に溢れかえって自分で自分に呆れていたからである。何を読んでも既読本が減らないんじゃないか……(そんなことはないのだが)。

 でも実際には、何かの調子で、本が読めなくなった。仕方がないので、しばしゲームをするなど気分転換を図った。でも、現在の僕の人生においては、5割が読書と小説執筆なので(精神的な意味合いにおいて)、その5割が機能不全になってしまうと、中々気分も上がらないものだ。それでけっこう悩んだりもした。

 たまたま、本を読めるようになった日が2日間あって、早めに回復したかと思った。そうしたら、彼女と喧嘩したり、家族と不和があったりして、またうまくいなかくなってしまった。実際にはこちらも辛かった。折角気分がのってきて本ももっと読めるぞとなったときに、「僕の精神を脅かしてくる、どうにも抗えない現実の重力」が僕を襲ったとでも言えばいいのだろうか(笑) そんなこんなで2週間くらい、本が読めなくなってしまった(必然的に小説も全く書けなくなった)。

 

 四月後半に入ってからぼちぼちと本が読めるようになった。間違いがなければ今月中に読了している本は4冊。そのうち、アントナン・アルトー『神経の秤・他』はツイキャスでも紹介をしたので、他の3冊をここで簡単に紹介しておきたいと思う。

 

1、カフカ『父への手紙』

 

カフカ全集〈3〉田舎の婚礼準備・父への手紙 (1981年)
 

 『父への手紙』は二段組で60ppほどの、実際には渡されることのなかった、カフカが死ぬ4年前に書かれたテクストだ。この手紙は、カフカの父に対する複雑な愛憎に満ちている。基本的にカフカは父親に攻撃的だ。しかし、あまりに弱弱しい攻撃さ。これは、僕自身の家庭環境の事もあり、すごいよく分かった。カフカの父親はいわゆる家父長制的な父親(まぁ、要するに「世間」一般にありがちな父親のイメージそのまんま)に近く、そうはいってもカフカに優しいところもあるのだが、口が乱暴でいけない。繊細な心の持ち主のカフカは、何気ない父親の言葉の暴力や態度に小さい頃から怯えていたと告白している。控えめな、しかし長々と書かれた父親への直訴。繊細で、脆く、鬱々とした感情がたゆまなく、一定のリズムで流れていくような作品だ。

 なお、この『父への手紙』は、カフカ研究においてそれなりに大事な地位をしめているらしい。カフカの人生観を知る上でも貴重な(そして長くないという意味でもラッキーな)作品である。

 

2、バタイユ『有罪者』

 

有罪者: 無神学大全 (河出文庫)

有罪者: 無神学大全 (河出文庫)

 

 

『有罪者』はバタイユの〈主著〉シリーズと目される「無神学大全」の2番目の書物だ。ちなみに、第一巻は『内的体験』(再読済み)、第三巻は『ニーチェ 好運の意志』で、バタイユの生前にはこの3つが刊行されている。遺稿となってしまった第四巻は『純然たる幸福』、そして今僕が読んでいる第五巻は『非ー知』であり、この5つが無神学大全の内容のようだ。

 

『有罪者』はとんでもない書物だ。そこまで長くはない(本文は文庫でpp300くらい)、前作の『内的体験』に比べればしかもさらにとっつきやすい内容となっている気がする。バタイユの熱の塊そのものちった情熱がほとばしる散文が、夜の思想を、彼独特の思想を鮮やかに描出する。ところどころエロティックでもあって、文学作品としても成立しそうだ。バタイユは文学者にもなれたし(実際小説も書いているし)、詩人にだってなれただろうが(書いているし)、「思想家」あるいは「批評家」たらんとした。哲学者ではないのだ(そう彼は自認している)。哲学者と呼ぶにはあまりに非体系的だし、しかしその爆発力は明らかに凡百の哲学研究者を遥かに抜きんでている。バタイユの信じられない才能は、こういう形で結晶化して本当に良かったと思う。おまけに河出文庫で読めるという奇跡。素晴らしいです。

 

3、宇野邦一『反歴史論』

 

反歴史論 (講談社学術文庫)

反歴史論 (講談社学術文庫)

 

 これについてはツイキャスや読了ツイートでもそれなりに書いたので割愛。時間が立ったら、独立した記事でも書こうかと思っている。それくらいこの本は僕にとって大事でした。

 

以上!