フェミニズムと〈政治〉

1、フェミニズムとは何か

 

 「フェミニズム」を端的に説明しているものとして、たとえばちくま新書の大越愛子さんの入門書『フェミニズム入門』の冒頭ではこう書いてある。

 「……とりあえずここでは、フェミニズムを「女性の自由・平等・人権を求める思想」と定義することで、それは近代自由主義の産物であることを明らかにしておきたい。」

(大越愛子『フェミニズム入門』、pp.8)

 そのうえで大越はこう続けている。

とはいえ、フェミニズム思想の魅力は、それが「女性の自由・平等・人権」を求める近代自由主義思想の枠内にとどまらなかったことにある。それは、近代自由主義思想の最も忠実な実践者であることで、近代自由主義パラダイムの枠を食い破ってしまい、近代自由主義パラダイムそれ自体の持つ構造的矛盾を白日の下にさらす結果をもたらしたのである。

ーー前掲書、pp.9

 この端的な紹介に僕もまったく乗っかりたい。フェミニズム思想には百年以上の歴史がある。そのうえで、フェミニズムは大きく(1)近代主義の志向と、(2)ポストモダン的な価値の志向、の二つを持っている。日本においては、第一波フェミニズム与謝野晶子平塚らいてう等が主な担い手)が近代主義パラダイムの範疇にあるが、時代が戦後にうつっても、運動の担い手が第二派フェミニズム、第三派フェミニズムと拡大していき、それは結果的に「ポストモダンの時代の思想」の流れとしてもうまく親和していった。

 

 その中で、僕はフェミニズム思想をおもには上野千鶴子氏を中心として学んできた。上野さんが著作や発言の中で幾度も強調するのは、以下の(これまた端的な)言葉である。

 

 (フェミニズム思想において)個人的なことがらは、すなわち政治的なことがらだ。

 

「個人的な事柄即ち政治的な事柄」。この主張の射程は、僕にとってもあまりにも大きい。というのは、近代においては、個人の領域=私的領域と、政治の領域=公共的領域を区別するという思考の枠組みが前提とされていたからである。つまり、このテーゼはそのまま近代批判になっている。いわば、ポストモダン思想の未完のプロジェクト宣言と言えないだろうか。僕としてはそんな気がしている。

 上野千鶴子が繰り返し強調する、「個人的なことがらは、すなわち政治的なことがらだ」というテーゼ……未だに僕は、その意義の奥深さを考え続けることの範疇にいる。

 

2、個人的な事柄即ち政治的な事柄

 

 個人的なことがらは、すなわち政治的なことがらだ。

 

このテーゼは、一つは「(日常的な)性にまつわる問題を考えることは、そのまま公共的な話題に繋がる」ことを指す。近代のパラダイムにおいては、私的領域は私的領域のままであった。たとえば(男性側の支配による)女性を対象とした人身売買や身売りなどは、もちろん現代でも続いてしまっているとはいえ、あくまで当事者間だけの問題であり、それを公共的な空間であるところの国家が関与することなどは、顧みもされなかったのである。さきほどの大越氏の説明によれば、フェミニズム思想とは第一義的には「女性の自由・平等・人権」を志向することにある。主には、平塚らいてうなどの第一波フェミニズムがこの運動の盛んな担い手であり、彼女たちのおかげで、性の問題は公共的な問題へと接続し、たとえば参政権や戦後の男女共同参画思想などの獲得につながっていったのだ。

 

 しかし、本稿では、このテーゼの別の展開を考えることにしよう。

 

もっと、以前的なポイントから遡って考えてみたい。

 

3、政治とメタ〈政治〉

 

 まず、僕の考えとして、思想というものは、おもに3つの方向にシフトしていくと考えられる。

 

1、イデオロギーへの頽落

2、理論化=哲学、倫理化

3、実践=運動への展開

 

 思想というのは、たとえば大越氏のフェミニズムの説明にあるように、簡潔な言葉にまとめられることができるものだ。

 マルクスマルクス主義について、難解なイメージをもっておられる方は多いのではないだろうか。しかし、マルクス主義自体は、とても単純な言葉で要約できる。たとえばそれは、「プロレタリアート(労働者などの貧民)はブルジョワジー(富を持つ者、資本家)によって抑圧=支配されている。この世界の法則を転覆させ、プロレタリアートが世界の主人たることを目指すのが、マルクス主義である」、うんぬんかんぬん。もちろん、ここにマルクス自身の思想や、エンゲルスの主張、さらには「社会主義」や「共産主義」などの概念が混じってくると、たちまち話は複雑になるのだが。

 

 フェミニズム思想とは、「女性の自由・平等・人権を求める思想」のことだ。しかし、このように端的に要約できるという事は、そのままフェミニズムが単純な内容を持つことをまったく意味しない。

 思想のイデオロギー化というのは、要するにその思想が教条的なものとなり、その思想がまるで神の言葉のように作用してしまい、その宗教じみた世界観に馴染むものと馴染まない者に人間をわけてしまうのだ。これは、「悪しき闘争」の開始を意味する。このケースにおいては、フェミニズム思想は宗教と化し、フェミニズムに極端に賛同する者たちと、フェミニズムを極端に嫌う者というように、とりとめのない闘争が開始されてしまうのだ。これが思想のイデオロギー化の残念な結果である。

 フェミニズム思想をまるで一つのイデオロギー(教条)なんだ!あんなものは最悪だ!と誤解している人は残念ながら多いみたいだ。それは本当に遺憾なことだと思う。

 

 思想の実践化、運動化はもっと分かりやすい。マルクス主義は、実践面においては社会主義運動と、共産主義運動に変化した。社会主義思想は現実のソビエト連邦という国家を産み出し、20世紀の世界史にそれまでとは全く違う新しい展開を加えることになった。共産主義運動については様々な事象があるが、たとえば戦後、特に1960年代のフランスや日本などにおける学生運動が象徴例だろう。

 フェミニズムももちろん運動化した/現在進行形でもある。

 

しかし、僕は、一つの思想がさらに深まるのは、思想がそれ自体として一つの強力なる理論化を得ることで、一つの哲学や一つの倫理学へと変貌することだと考えている。思想が哲学に変貌するとはどういうことだろうか。

 フェミニズム思想は、明らかにこの面も持ち合わせているのだ。僕は、フェミニズム思想が、理論面での深い思索を経ることによって、一つの哲学=倫理学へと昇華した例として、上野千鶴子の『家父長制と資本制』を挙げたい。

 

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

 

 

 本稿では、この上野の『家父長制と資本制』の概略を紹介することによって、僕が「フェミニズムと〈政治〉」をどう考えているか、を説明したい。

 「家父長制」という概念がある。これは、日本の近代における、父権主義的なパラダイムのことを指す。「イエ」制度が中心となっている社会において、イエの主人たる男性がイエのメンバーに対して大きな権力を持ち、イエの主人に背くことはそのまま社会の規則/決まりに背いてしまうことに直結する、そのような制度のことである。

 この制度の下では、「男性は働き、女性は家事を切り盛りする」ことが中心となる。これはどういうことだろうか。つまり、「労働市場」という「共」的な空間は男性たちによって占められ、女性は労働市場からあらかじめ疎外されてしまう、ということを意味する。そして、「イエ」はあくまで家族たちの「私的」な領域として措定されてしまい、イエの内部はそのまま私的領域として、他の社会に接続することができないままになってしまうのだ。

 

 資本制とはそのまま資本主義システムのことだが、上野千鶴子の先見性は、まさにこの資本主義システム=労働社会が、近代の家父長制との蜜月な関係によって強化されることを理論化しているということにある。つまり、家父長制が働く場=イエからは、男性が支給され、女性はイエの内部に留まることを余儀なくされる。女性は、金銭を主体的に持つことを許されない。そのことで、まずは消費社会から疎外される。そして重要なことに、「国家的な領域」=政治の空間からも疎外される。

 単純に、女性が労働空間から疎外されるというだけで、政治空間からも疎外されるというのは飛躍があるように感じられる。しかし、上野によると、女性は「労働=資本主義の空間」において主体性を持てないことによって、資本主義の駆動原理である「お金」を主体的に所有することができないので、政治空間に参与することをも難しくさせられるのだ。家父長制は、女性をイエの内部に閉じ込めることによって、政治的な発言や行動をも制限する。

(α)女性を私的領域に閉じ込める = メタ〈政治〉の作用

(β)女性は国家や消費社会から強く抑圧を受ける = 通常の意味での政治の作用

 

(β)は、たとえば参政権の剥奪(若しくは制限)などが一例である。そして、このレヴェルでの政治作用をさらに規定しているのが、〈政治〉なのである。これは、専門的な言葉を使うと、メタ政治である。メタ政治の領域において、女性は男性とは区別される形で、私的領域に全き形で監禁されてしまう。このメタ政治における作用が、現実空間での政治において、参政権の剥奪や身売りの暗黙の了解、といった事態を招いてしまうのだ。

 上野千鶴子の『家父長制と資本制』は、現実の政治だけでなく、この現実の政治の構図そのものを規定している、メタ政治の仕組みを巧みに暴いている。

 

4、最後に

 

 本稿で論じたかったことは、このメタ政治のレヴェルである。メタ政治が、現実の政治や経済や私的領域を、アプリオリに規定してしまうのである。これはたとえば、マルクスの思想を独自の仕方で読み解いたポストモダン思想の騎手・アルチュセールの「下部構造と上部構造」の概念とパラレルである。

 

 個人的なことがらは、政治的なことがらである。

 

このテーゼは、したがって二つのポイントを指す。

 

1、個人的な問題(性の問題)は、そのまま公共的な議論たりえる。(LGBT言説の活性化、#MeToo運動など)

 

2、そもそも、1のような現象を引き起こしているのは、メタ〈政治〉における、家父長制と資本制のような、「畏怖すべき」対象としての暗雲なシステムなのだ。

 

(2)の意義は、あまりにも大きい。大きすぎるのだ。そのことが分かってもらえたら、僕はそれだけでこの記事を書いた甲斐があります。