In rhythm(散文詩)

昔書いた、アフォリズム形式の文章を発表します。長いです。

In ryhthm  

 

 

序 

 

 薄暗い窓の、緑色のカアテンからのぞかれた眠気のある朝日が、此処に届いた。とにかく眠たかったが、その朝日の、普段は見せぬ橙色の優しさとでもいったものに、ひどく惹かれてしまった。この部屋は灯もほとんど消して、私は眠りきることなく、ただ天井を見たり時計の音を聞いたりしていたが、部屋は昏き装いからだんだんと目覚めはじめていた。こんな光の具合は見たことがなかった……そのようにしばし惚けにも似た気持ちに捉われていた。人々の、関わってきた、昨日の、一昨日の、二年前の、旧来の友人たちや、恋人たちの、暖かさや、熱情、悦びの表情、といったものが、目にゆっくり浮かんだ。私は目を閉じた。目を閉じていても、いまこの部屋は確かにある種の暖かみに包まれている、ということが分かった……布団をただカアペットの上にそのまま敷いていたので、私の右手は布団を出てそのカアペットの綿毛に触れ、その感触をゆさゆさと確かめた。灯りなどつけなくても、どんどん日は朝に向かいつつあった。部屋にいながら、夜明けを見ることも、あるものだ、夜明けとは、朝の到来は、エネルギッシュとか溌剌としたものだけでもなく、このようにゆっくりと過ごした深夜の時間をそっと癒してくれるような暖かみを持つものでもあるのだ、と気づいた。私は太陽の偉大さを思わずにはいられなかった。結局地球に住まう私たちに太陽一つかけたらあっという間に銀河は滅びるのだし、太陽の光やエネルギーは、生けとし生きるものに深く、根本的に作用するのだ。植物は水と光と養分を必要とするが、私たちだって太陽を、もっと太陽を必要としていいのだ。文明化した社会は夜に人工の灯をもたらし、時間を引き伸ばし、夜の新たな生活形態を誕生させたが、それでも太陽は回帰する。東から西へ、そして東から西へ、南に、必ず、毎日、毎日、ほとんど永遠に近似する時間のごとく、半永久的に……。私は、最後に、携帯を取り出して、その青く光る画面を、ゆっくり、ゆっくり、確認していった。そしてそれを消し、眼鏡を外して、再び、ふかいふかい眠りの世界へ、赴こうとした……。

 

Ⅰ リズムの方へ

 

 愛に似た偽りの感情の放出。それは一過性のものであり、ゆえに真実にあらず。好意を抱くはたいてい欲望のゆえなり。欲望と人間は切っても切れぬ関係にあるから、むしろ欲望の現象学を我々は学ばねばならぬ。しかし、自己がこの身体に一度限定されたのなら、もはや欲望を他に抱くことは不可避。決してこれは世界に対する愛ではない……。そうだと分かりながら今日も偽善を生きるのである。虚偽を戯れるのである。詐欺を重ねるのである。愛を消費するのである。

 

化合物というのは一種の概念である……即ち何かと何かが混ざって新種の物体が出来あがるというそれ。この場合、私が数日前に感じたものものしい吐き気というものも、いわば唯物論的な思考で原因を求めることができるだろう。すなわち、どろりとした父親への感情、そして胃に穴があくほどの酒、酒。いつの日か感じた眩暈もこれに加えてもいいのかもしれない。とにかく情けないものはそれを累乗するかのように何かの効果を生み出し、それがさらに精神的なものに対して悪を送り返す。そういうもので日々ができあがってしまったとき、私たちはそれを絶望と呼ぶだろう。このとき、絶望へ至る道というのが、案外遠くないことにも、今さら驚きを憶えるのである。

 

 素晴らしいものの組み合わせをひとつ挙げよう。それは太陽と心臓である。その類似点を挙げてみよう……。一、それは世界構成にとって必要不可欠であるということ。太陽は、地球環境が成立し生命が誕生するためにはなくてはならない。かたや、心臓は人間のポンプ、中心である――頭脳と共に、或いは頭脳無しでも(脳性まひ患者を思い浮かべよ)。二、それらは触れられない。太陽は直接見ることができない。心臓を取り出した時にはもう自分は死んでいる。三、それらはどちらもマグマである。おどろおどろしい生命力をふんだんにたぎらせた、真っ赤なマグマ。さてこのことから、ある一つの仮説が導き出される。太陽と心臓は隠喩的な意味において等価であるということ。つまり、人間の心臓は太陽なのである。対象としての太陽ではない。それ自身において、燃えたぎる生命の源、それ自身において太陽である心臓。人間は自己の内に心臓を持つ。つまり、太陽を持つ。人間は内在的な意味において、生命そのものなのである。或いはこう言える。生命、それが大切である、と。生命の哲学の系譜を洗い出す作業はすでに見たところ少なくない場所においてはじまっているようだ……。それとともに、生命―非生命の対立軸、いっそう「生命とは何か」が問われるであろう。このことを問うとき、私たちは生命が誕生した地球の発生にまで遡って哲学的な、あるいは文学的行為をなすことを私たちの内奥から要請されるであろう……。地球を問う作業はまだ始まったばかりである。

 

 詩的なもの、が……此処、から、退いていく、中断する。しかし他方でこの肉体の五感という五感は研ぎ澄まされていく感触もある。とにかく対立、男と女、資本家と労働者、神と人間、ライオンとシマウマ、政府と大衆、医師と患者、西洋と東洋、昼と夜、何から何まで……。“君とは肌の色がどうも違うようだ”、うむ、それはそうなのかもしれない、さてどうしよう。ねぇ、笑いあえる日はくるか。理解なんていい。ただ、ウィと、存在それ自身を、他としての存在を、半分は肯定できるかのような、そのような態度を人間は形成することができるだろうか? ひとえに歴史はこの点にかかっている。あなたとは違うもの、それを全肯定するでもなく全否定するでもなく、ただしかしフィリア――友愛――の精神を少しながら持って……。こうして、こうして、最初の詩的な感覚から、しだいに政治の舞台へと上昇していく。

 

 うだるような熱気のこの中心から逸れていく、その衝撃的な死への恐怖、をどうすればいいのか……。何、またスコールがうずまく、それに対して我々は如何せん、どうしようもない、とりあえず小手先で対処したまへ。そんなことは分かっている、しかしナァ……。暑い、暑い、その熱気が、なんともこの球体をすっぽり包み、なんと、その球体は、どこからともなく、守られ、しかし閉じ込められ、つまり幽閉され、なんだかどんどんわけのわからないことになっていく……。息する、呼吸が苦しくなる、といっても別に死ぬ必要なんてこれっぽっちもないんだがね! そう、例えばあの人は人生の岐路に立たされた。それから彼がどうなるかは、ひとえに何か真摯なものに懸っているといっても、まったく過言ではないのだ。それも感覚では分かる……。それでは、それでは、私はあの人を窮極的に救うことができるのだろうか? 解答は保留のままである……。 

 

 なにゆえAとBがありとあらゆる諸存在の中から一挙に焦点化されるのか……それは存在がその己の中心を生きるがゆえのことである、そのとき彼が持つモノやヒトとの関係性は有限となる。無限からいい加減解き放たれよ。有限を肯定したらば、別の世界認識=構成がはじまる。

 無数の点のざわめき……星などという形容は合わない、なぜならば私は星が動くのをあまり見たことがないから。もっとおどろおどろしく、邪魔くさくて、手に負えなくて、もどかしく、切なくて、許せないような、しかし諸々の点は確かに流動して、あちこちへと飛び交い、それが時に美しい瞬間瞬間を作成する――世界ハ動ク。速度ゼロから百まで。動かないものなんてあるのだろうか? そして私は適当に/適度に動いていく貴方を愛していたい。

 

 変身願望。外、を見つめることであなたは何かを取り込もうとする。夢、蝶の夢、例えばそれは夢の中の蝶のように桜の花の色をした幻想的な色彩の……。えぇ、或いは根元から、根っからの異国人なんですねという言い方が妥当であろう、金髪を敢えてウィッグで装うんです、しかしそれはほぼ精神Cの持ち主によってまた別のものに変奏=変装されていく、実に巧いやり方で。けっきょく変身は厳密な意味では失敗するのだけれども、その失敗が新たな道へ結果としてつづいていく、希望があらわれる。変身願望にとりつかれる女の子たちはいつでもときめいている。美しい、可愛い、いやグロテスク、堕落的、変態的、猟奇的、幻想的。トリツカレタラバ、今度はあなたが憑りついてしまうほどに、対象を変えていくのです、あなたが蝶の夢や夢の蝶となって、胡蝶となって、跳となって――。

 

 那由他に拡がる空――無数の煌めき、ただ短いじかんの中で見ることのできる、感じることのできる、そんな世界があった――ある。夜だよ、夜の闇だよ、ここにはコンビニエンスストアも無いから、星がよく見えるね。天文学者の息子或いはそれに準じる者。ねぇ、なぜ星は在るのだろう、それとこの地球を見た人は「地球は青かった」なんて言ったらしいけど、それは本当なのだろうか? 青い星……聡明で、透明で、たくさんの命を決して放り投げようとしない、それが地球……なのかな。星。なぜ簡単には宇宙に行けないのだろう、たくさんお金を持ってないと、いやそれはやっぱり、星を見れる人は限られるんだよ……なんで? 幻滅とかいろいろしちゃうんじゃないの、実際宇宙に行くとさ。成程、そういうこともあるのかもしれない、地球とあの小さな煌めきは、信じられないほど距離が遠く隔たっていて、でもその存在を確かめる術はある。そう、那由他に拡がる空、幾つもの煌めき。僕たちはいつも空を見上げて、元気をもらう。

 

 ひるはひだりによってよるはみぎによってよりてこころここにあらず。がんめんのなかにてあかいろのにほひあらわれたり、かれらこいなかにありしとぞしる。

 

 螺旋階段につらなる一つの部屋、そこから瞬く光が現れて、その光は螺旋階段の艶美なうねりとともにひとつの系列をつくる――そうしてできた系列からまたほかの系列へ、そうしてそれらが集まってひとつのまとまった世界を作る。さきほど在った部屋はもうだいぶ遠い、それはしっかり包まれて安全な場所にある。この世界は僕たちの記憶を優しく守る。記憶は安全に保管されて、いつでも引き出されるように。偏執的なところはない。僕たちはポケットからひとつの鍵――それは金色である――を取り出し、その世界の扉をそっと閉めておく……ふたたび開かれる時が来るまで。

 

 一筋の光……その光のなかには暗きぬめりのようなものがあって、それは人を惑わせもするし、そればかりか人の心を誘惑して、虜にさせるどころか、人を堕落させ腐敗させる危険性をも秘めている。それを美的だと形容することもできるだろう……。光にはどこかおぞましい側面がある。そう、綺麗で聡明なイメージとして塗り固められたものでは決してないということに、私たちは思いを馳せなければならない。光、それは誘惑するものである。飛んで火にいる夏の虫たちのように? なぜ数多くもの人が、そういった光を飽くことなく求め、一部は退廃の道へと溺れて行くのだろう……。堕落への美学、いや美学などともったいぶった表現をしなくとも、それをそれとして肯定する私たちの態度が求められているのかもしれない。光、それはいつも両義的なものである。光、それは美しくもあり、同時に汚らわしいものでもある。光の悪点を肯定することができようか? 光に翻弄されていく人々、その人生、そのなかで葛藤し、あるいは激怒し、それでも真摯に受け止めようとする態度……。光ヲ肯定セヨ。単純に実行できるものではない。私たちはそれを理念として受け止め、光について思考や感性を発揮させ、光以上のものを追求することができる、そんな夢想を抱くことはできよう、思念はどこまでも自由であるのだから。

 

 分からないことに罪の刃を向けることは非道徳的なのであろうか。無〈知〉に罪を問うこと……。〈知〉の形態は二つある。一、ある事物を知る/知らないのレヴェル。情報というおぞましきものが氾濫する中で、何かひとつの物事を知る/知らないことに果たしてどれだけの価値・重みがあるのだろうか? 知らないことに対しては何の罪も問われない。二、理解する/理解できない/理解しないというレヴェルにおける〈知〉。サヨクとウヨク、オトコとオンナ。「君を理解できない」。対立という枠、軸足が与えられたうえでの唾の引っかけ合いならまだいいのだ。特に立場を取らないこと――つまり最初のレヴェルにおける「知らない」を特化した存在者のこと。拒絶者。これも存在論的カテゴリの一つの形式である。問題的なのは、この〈拒絶者〉――何モ我ニ寄セツケルナ……――と、「知らない」の立場/存立の間で揺れ動く者なのだ。そしてその揺れ動く者たちに対して理解を呼びかける、一連の運動の意味……。分かってほしい、分かってくれないと話ができない或いは話せば分かる、等々。ここには、他性というものがまだよく思考されてもいない、倫理の欠如(ある種の、という意味ではあるが)といったものが認められるのかもしれない。啓蒙の限界。

 

 ことばをつかいすぎないようにすること、ことばを敢えて使わないこと、ことばを止めてみること、ことばを使うことは文字通り魔法の効果をもたらすということ……。ありていにいえば、魔法使いについてもう少し多角的に真面目に調べて考察するひつようがあるのだということ。ことばはそれとしては何の重みも幅も持たないしかし、書かれたり話されたりしたときに効果を発するようになるから、それだけで現実世界に多大な影響を与えるということ――その原初に立ち返れば、ことばをつかいすぎることに対してもっと僕たちは慎重になれるかもしれない。

 

 曖昧な領域の中で、きいろの君だけを取り出してみる……君は甘くて切ない、よく卵の焼かれたプリンの味覚。君から嫌われたくなかった。僕はたぶんずっと前から君が好きだった。だのに何も反省的でない僕は、君から距離を取ろうとした。丸みの中にある中心、それはとても秘蹟的で、そこからまばゆい瞬光が幾筋も放たれているのだ――そのために君の顔はいつもよく見えず、ぼやけている。その輪郭の曖昧さがたまらない。それでも君は僕に対して真剣に腹を立て、こことあそこが気に食わないの! と言って、僕を心底驚かせた。あまりに君を失ってしまいたくなかったから、僕は卒倒寸前だった、といえばそれは言い過ぎなのだろうか? もう一度、この瞼のなかで、君が僕に笑いかける。君はポラリス

 

 フロリダから一種の防衛戦―線をはってここまでつなぎとめる、苦いコーヒーの味。暑い夏だからレモン果汁がよく染みる。私この前筑波に行きました、とてもクリーンな街並みでした、それ以上も以下もなし。そのあいだにこぼしたコーヒーでつくった一本の線に、蟻が群がる群がる、レモンの果汁に群がる群がる。それは駄目です、捨てておきなさい違うんだ母さん。所詮は子供、さりとて百七十回の奇跡をおこなう。白い宝石を見つけた時が全てのはじまりだった。そうこうしているうちに蟻は群がる、こぼしたコーヒーとレモン果汁に蜜を求めて群がる群がる。おい、今鐘の音が聞こえなかったか、幸せの音が、いやあれは単なる時報だ。鐘の音を聞いて神経症にかかった老人がいた。今や群がった蟻はたちどころに黒々とした領域を作って、こぼしたコーヒーやらレモン果汁やらを全て埋め尽くしてしまった、それらの存在など跡形もなく奪い取ってやるかの如く。

 

 kioku toku no kioku hoshi yume sora ai dokoka no kioku ituka mita nizi dokoka de okita senso kohi no azi yume ha yume de atta dokokaraka hitotuno utaga kikoeru natukashikute totemo sensaina dokokaraka sukui ga kaesareru tikaraduyoi tashikana toku no kioku yume de atta kioku natu no kioku.

 

今の人間が生きることはそれだけで真の犯罪を構成する。生き延びようとする意志はすべからく罪的である。

 

 瞬―切断。圧倒的なまでの非―意味、非意味的切断の、実に心地よいスピード。凛として時雨のTKが紡ぐあの全く意味の欠落した歌詞。しかし彼はいかにも情感的に歌を歌いあげるのだ――そのエネルギーと攻撃性と繊細さは一曲一曲を比類なき美しさへと昇華させる。あのような歌詞を、ポエムを聴いて、現代の若者たちは何を思っているだろうか――? あるいは、あのようなポエムを、ちらちらと、自分ながらに真似てみたりしているのだろうか?

       さらわれたい夏 Sadistic summer

                       (凛として時雨/Sadistic summer)

 詩を書けば、世界が現れる、否、世界と自分との見えるようで見えない糸、道、そんなものが現れる。突如として現れる世界との結び付きに、いろんな角度から眺めてみては、もがいたり、それを必死で掴もうとしたりする。僕もかつてそんな高校生だった。詩を書け、詩を書け、歌を書け、ポエムを書け、自分の叫びをあげろ! そんな事を言ってみたい。こんな時代に、言葉というものにいろんな人が挑んでいくのも悪くはないだろう……。

 

 今のところのドゥルーズについて。時間が経てば経つほど、『差異と反復』はますます謎めいた書物のように感じられ、ドゥルーズの思想に対するドゥルージアン(追随者)の理解が様々に増えていく。小林徹氏の手による『経験と出来事』の言明は素晴らしい。氏による『意味の論理学』の素描と、それから『思想地図vol.4』に載っている千葉雅也氏のそれの解釈とを読み合わせると、ドゥルーズが哲学の世界観の地図として提示する表面―表層―深層という三つ組の構造論は、私にはますます地球の地質学的構造のアナロジーのように思えて仕方ない。表面、つまり地球の地上、地表では、人間たちがモノをいい、勝手に高層ビルなどを建てては〈自然〉破壊に勤しむ。このことに、意味はないのだ。それは、例えば資本主義に究極のテロスといったものは存在しないように。「意味の意味はない」、その非意味の論理を掴むこと。

 地球の深層では、マグマが沸き立っている。私たち人間はそこに立ち入ることができない。管理もできない。星の謎。星の中心には、燃えたぎる破壊的で生命的なマグマがいつも在る。

 地球の深層というと、私はモグラを思い浮かべる。地層の中を自由に? 勝手気ままにかは分からないが、掘っては動き回ってミミズを食べるモグラ。確かに彼らは地上の世界から身を隠している。ミミズもだ。ミミズは地上で捕えられたら、人間の魚釣りのエサなどにされたりもする。環世界。モグラ的生=ツイッター的(いつ浮上しても構わない、過去のツイートを「掘る」、基本的にはネクラな連中がワイワイやる空間、等々)だとはいえないだろうか。モグラ生態学ツイッター社会学との総合が必要だ。

 ドゥルーズの研究者たちは、(一)ドゥルーズ本人が何を言ったかの解明に次第に決着をつけはじめ、やがて(ニ)ドゥルージアンとして思想を批判的に継承していく、という動向になりつつある。それにしてもドゥルーズは「危険」な思想家だ。ドゥルージアンが大真面目に自分たちの主張を展開しはじめたということは、これから世界には危険がまとわりついて離れない、そんな戦慄にも恐怖にも似た事態が待ち受けていることを示唆している、間違いなく。

 

 月を見る―月を想う。あの星の表面に奇しくも人類が舞い降りただなんて! 私には信じられない、ひとつも信じられない。あるいは月に舞い降りた宇宙飛行士は遂に地球に帰ってくる事が出来なかった……、とかいうほうがまだマシだ。月に人類がいるなんてバカバカしすぎる……。地球と月との絶対的距離。夜想曲の旋律が、消えてしまう。日本人も西洋人もそれぞれに想いを馳せたあの月は、将来見る影もなく跡形を消すかもしれない――。

 

In rhythm. In-rhythm, rhizome. リゾーム、リズムの中に。リズムの中へ。この馬鹿げた精神と身体をリズムの中へすっぽり包ませてしまうこと。ダンスの境地。音楽だけが在る、何と美しいんだろう! 世界は声voirの響きでひしめきあっている、あなたの声、私の声、誰かの声、リフレイン、リトルネロ

 

 愛が美しい。何が美しい。人が美しい。誰が美しい。彼が美しい。どれが美しい。緑が美しい。何が来る? 誰が来る? 聞こえない声にそれでも注意して耳を傾ける……音の複雑な絡み合いがある。誰も聞いた事のない音がある。誰も実現したことのないリズムがある。誰も思いだしたことのない速度がある。頭の調子がちょっと重い、でも体は軽い、何よりもバランスが大切だ。今日は誰が来て、明日は誰が来て、昨日は彼が来て、明後日は彼女が来て、来ることだけが来る。何度も、何度も。

 

 藍色のガラスの破片が宙に飛ぶ。夢だと思って夢の中でその破片に手を伸ばす。掴もうと思ったらそれは球体になって手をかすめて横に飛んで行った。何もかもが曖昧だ。路上でギコギコと三輪車を走らせる男の子。上から受ける日射しに眩しそうにして男の子についていく若い女性。体があたたかい。そう思って手を見たら段々水の中で絵具が溶けて広がっていくように、手の輪郭も空気にゆっくり溶けていくのが分かった。膨張。何度も見たことがある。こうやって消失することは悪いことではない。声が飛んでいく音がはじけとんでいく。真昼の既視と消失、幾つかの光と色、怠惰。

 

 

Ⅱ 消費される愛、語られる愛、神聖な愛

 

 君を愛している。もちろん、君を憎んでいる。

愛の溢れる愛の溢れない愛の溢れる愛は溢れない溢れない愛、愛。 愛の溢れる人などいない。やはり君は憎めない。

 

 究極の外部、〈語りかける〉外部、恋愛、俗。不意打ち、不意に、心ならず、落ちてしまうこと――恋。

 

 不可解な状況の噴出、文字通りの「不可解さ」つまり想像の範疇を超えた事態が次々と起こり、その渦の中に巻き込まれそうになること。理解がおいつかなくなって、やがて思考停止の欲望がバラ巻かれるのだが、とりあえず「観察」してみること。この世界に「まずは留まる」ために。カオスモーズ、社会。

 

 幸せ太り、幸せを追わないように求める、~モ富メル、肥える、肥満体、サイボーグ、プリン体、肯定、旨味。

 

 世界は狂った。さあ、今から飛び込むのだ!!

 

 おそらく「好き」は今にあって大切な人に言い続けなければならないのだ、というのも恋はなかなか愛に実らないから。愛、真の愛、それはいまだかつて実現された試しはなく、いや個々には偶然として為されてもいるのだが、私たちにはけっきょくのところ未だ到来せざるものとして、真の愛を私たちは本当に見ていないのである。くだらないほど囁かれてきた虚言の愛、安っぽい愛、それらが反転すること。

 

 てぃるてぃらてぃれ、まれびと、レーヴィット、言の葉の戯れ。言は知ではない。知から抜け出して噴出して終いには溢れ出るような言葉の数々が必要だ! リズム、リズムに合わせて歌を歌って血肉の隅々を貫通させ音の流れに沿って自己をまとめ上げてしまえ! ふ、ふ、ふゆ、ひ、ひらひる、ひれ、ひろいちきゅう――そら、あめ、おと、くも、にじ、ちり、つぶ、ゆき、かみ、てん、うえ、した、まち、まつ、ひと。二文字から三文字へ、三文字から四文字へ。ここには一つのシステムだって決まりだってない、或るのは自由という動きだけ。動くことが私たちを生存させる、動きだけが私たちを私自身から解放する。夢のような音楽、虹のようなリズムと光。

 

 言葉の重みというもの、発話する時の口唇の運動と風速と唾液、書く時のボールペンや鉛筆による印字。全き物質性。この私の手からすり抜けていくという形容がぴったりかもしれない。言葉よ! お前は何処にいるのだ――何処からともなく。深く昏い闇の中から、まるで世界が啓示を受けたかのように形〈かたち〉を伴った物質の粒々が発出され、そうあの重みをもって私たちの眼前に立ち現われるのだ。

 

流氷

 

 たといその二字だけでも私は南極の氷河、寒々しい氷の連なりと海の激しい流れを想像する、本物の気温さえ伴って。言葉の重み、手からすり抜ける、そのわずかな瞬間の、人差し指にかかる、確かさ――〈ソレは私を刺激する、私はソレに反応する……〉。

 

 愛、とか、神聖さ、クラリティ、とかなんだか言って、取り繕って、けど何にもならない、安っぽいレストランで出されるハンバーグ定食のお決まり程度に添えられた小さな野菜のように扱われては消去されていく。作る、捨てる、作る、捨てる、ひらすら繰り返す。疑似愛。つくられたあい。加工食品です、そちらのボディは一晩二万五千円になります如何でしょうか……。どんなものでも積み上げれば価値あるものになるなんて嘘。まっぴらの嘘。まるでやるせない、はしたない、それすらおもしろくない。愛、愛、今日も生産される愛、疑似愛、それに縋ることしかできない我々、無力、絶望、ニヒル、そしてすさまじき下劣。

 

 紫の鉛のかたまり。幾つもの小さな孔が空いている。そこからぬめったなにかが飛び出す、鈍色にてらされた蛇の鱗、しなやかな肢体、くねらせるそれは一つの完成されたおもちゃの動きのようで見惚れてしまった、遂に鉛のかたまりから完全に姿を引き剥がして現れるのは新しいメデューサ。狂気の、そして微笑のメデューサ

 ねぇ何が悲しい、何が憎い? 我々の新しいメデューサはあたえられた空間を海のように自在に使い、その水面に浸ってゆらゆらと、ふわふわと浮いてはたゆたうのです。瞳孔なきメデューサ。あちらの、重たい世界の方では、すべての動きは黒い欲望の集積に根をもっている、そのことがメデューサには分かっている。メデューサは高度に磨き上げられた空虚な遊びのなかに戯れることもできるし、こうしてこっちの世界で憂いをおびて静かな水面上をたゆたうこともできる。

 新しい我々のメデューサは、あっちからこっちへ、人々の表情を奪ってはこちらに返す、我々はそれを武器にすることができる。メデューサよ! 貴方がいなければ我々は詩の一篇だって読めないし、スウィフトの小説だって一行たりとも正しく理解できなかった。

 メデューサの笑った顔はどこか哀しげだ。彼女が重たい世界で空虚な戯れから手を離すとき、幾つもの人の表情を奪ってこちらの世界に帰ってくるとき、彼女の表情は世界を二つ抱えているぶん哀しい。我々の新しいメデューサ

 

 真実が無い! とたしょう大仰に騒ぎ立てる貴方の口許は官能的で好きだ。真実が無い! どれほど衝撃的なことだろうか。ひとつも真実が無い。全ては黒く塗りたてられたただの舞台道具で、本物の山も川も都市もネオンもディスコ・ルームも貿易ビルセンタも浮ついた恋人たちのサンタクロースもあったためしがないのだ。貴方の喜びも、憂いも、三度目の恋人から抜き取った性ない性欲も、絶望も、戯れでさえも。真実が無い! 或いはぽっかりと地盤を失くした空っぽだけが存在している! なんて心もとない、心寒い、まさに寒い、温度も光も湿度も無い。おお! これが本当の姿なのか。おお、これが本当の世界の在り方なのか! 真実が無い! これっぽっちだって、あの日貴方が丘の上で交わした大切な契でさえも、嘘だったというのか。

 

 貴方は私の事好き?――うん、とっても好きだ――嘘よ、今のは嘘。――なんでそんなこと。僕は本気で君の事好きだ。――例えばどんなところが?――たとえばって……。君のその大きな瞳。髪の毛。カールしたつやのよい髪の毛。唇。ほんのり紅い唇。そろったまつ毛。――他には?――しなやかな肢体。柔らかい乳房。すべすべしたお腹。暖かいあそこ。お尻。足の裏。それから、自由なところ。自由なのに、意志が強いところ。意志が強くて、なんでも自分で決められるところ。つまらない僕を、決めてくれたこと。感謝。愛。愛が溢れているところ。それと、ちょっと恋愛にだらしないところ。――それから?――まだたくさんあるけど、聞くかい?――ねぇ貴方、貴方は本当に私の事好きみたいね。――もちろんさ、ぞっこんさ。――貴方が愛すたびに、私も貴方の事を愛すわ。貴方が愛す以上に、私は貴方の事を愛しているわ。――最高の人だな。――私もあなたに見つけられたという気がするの。こんなに幸せなことって他になかったわ。ただ一つの小さいボートを漕いできて、貴方は私を見つけてくれたの。――僕もそんな気がしている。一人で漕ぐボートの中、君に呼び止められて、水に沈むこともなく、こうやってまだ現に航海しつづけている……。

 

 愛の配布―配分。俗的でだらしない愛を配布する、それは〈天使〉の行為、好意。「恋愛の掟百カ条」を網羅的に記述し配布せよ――くだらない愛が革命を起こすなどと誰が期待できようか。愛とは呼べない愛ならいつの時代にもあった。定義などと高尚なものからはうんと遠く離れた所ですでに世界の営みは行われていたのだ、これからもずっと。口にされる度に泡となって消えた、一つの願いは跡形もなく空になる。また誰かが愛を育む、くだらなくてしょっぱくて怠惰な……。そこにこそ神聖さが宿るのだ。これは逆説だ、転換だ、ずらしによる脱構築だ。何も、変わらない、ただ君の中だけでいつも大切なものと大切にしなければならないものが躍動し、生という義務を遂行しつづける、それは神聖なのだ。

 

 直線を描こうカーヴを描こう、一本の鉛筆を自由に走らせ黒い跡は軌跡をのこす――鉛筆の先に光が宿る。氷上を舞う戦士。彼はステップを踏み、難しいステップを、そしてしなやかな螺旋を彼の身体を軸にして描いた――なんと美しいんだろう! 自由で美しい世界は丸と螺旋からできているのだ。螺旋、狂おしいほどしなやかでエロティックで私は心酔してしまう。円周率は世界の暗号だ。あぁ、あのアイススケーターはきっと恋をしている。

 

 She is LIE. Her existence is a fiction. Her eyes are blue and we don’t know what she sees or wants to see. Her lies attract many people to be crazy and mess up them. Her non-existence doesn’t have any ponts in which we usually lay down. Thus she lay in [ex]-istence. SHI-RA-I san.

 

 フロリダからアテネへ。アテネからメルボルンへ。メルボルンからサン=パウロへ。夜間飛行。サン=パウロから成田へ。東京から福岡へ。朝。コーヒー。街の佇まい。白い吐息。寝ている恋人の顔。睫毛。辞書を抱えた外国人。ペーパーバック。ジャック・デリダの『絵葉書Ⅰ』。出発と汽笛。光。

 

ゆめのなかをむすうのほしがかけまわっていた、流星群が在ったのだ、蜘蛛が天井の空に糸の網をはるように、星の輝きは列をなしてきらめていた、夏の夜。幻影的。幻覚的。幻覚的夏、記憶、夢と空。何かを失った。失ったことを思い出す、本質的なことを。 みんな自分のことを忘れてしまっていた。 貴方は違う。自分の根をもっている、アメリカのフロリダからスペインのマドリードまで、強烈で残酷な旅を経験した、いくつもの地を歩いた、人々を見た、死を見た、星を見た、夜を超えた――神のことを祈った。祈りのとき、いつだって貴方は悲しい気持ちになった。なぜなら人類が救われることなどないからだ。人類は救われない、それでも生き延びることくらいはできるのだった。それが現代の出した最終的答えだ。だから僕と貴方は、世界をえがく詩人になった。それくらいのことをしようと、心に願って。 そのとき神は貴方に恋をした、神と僕と貴方との三角関係がはじまっていた。

 

 光がまだ生まれる前の瞬きのなかを視覚が捉えていた――無音。何本かの灰色の線が蜘蛛の糸のように走っている。視界が揺れる、さざ波のように……。画面の端のほうから、じわりと射すような温かみがゆっくり広がる。さざ波の一粒一粒を認識できるように、集中は高まり構成のひとつひとつを繊細に描写する。やがて包容力に彩られたブナの木の葉のような緑が囁くだろう――。ピクチュクピクチュク、そこに〈私〉は小鳥の啄みの音すら増して聞き取る。産まれる! 視界=画面が大きく揺れ、一気に橙色と赤の混じった生命の力のリズムが支配する。揺れは収まらない。ドク、ドク、一定の間隔を刻んでいるかの如くだ。やがて真ん中の方からこの目ではうまく捉えきれない瞬光が現れ、灰色の線は犯され、生命の色も消え、一つの光が視界の全てを支配する……。誕生したのだ。

 

 彼らは火のついたロウソクを持っている。太くて、十分に時間持ちもしそうな一本のロウソクに、火はゆらゆらと揺れている。紅い火だ。〈巡回する使徒〉の役目はなんだろうか。彼らは愛の囁きを呪文に変えているのだ。世界中の愛の囁きの言葉を、古きラテン語で書かれた書物を解き明かして秘教的な文言を作成する……。〈巡回する使徒〉たちは教会の廻りをまわっている。何周も何周も、誰の呼びごとも命令もなく。教会の屋根は高く三角錐の形をしている。〈巡回する使徒〉たちは集中している。彼らの目の様態からでは心理状況を把握することはできない。白い袈裟、胸の前まで持ちあげられた金の盆。教会の周辺では、マルク村の豚小屋の豚全部が狼たちに食われて死んだ。また、リーヌ河の畔で姉妹が心中自殺をしていたという。世界がなぜ廻っているのか、そもそも本当に廻っているのか、一向に分からない。誰も分からない。しかし世界のはずれのこの教会において、愛の囁きを秘教の呪文に変えてつぶやかれる〈儀式〉だけは終わらない。〈儀式〉は続く。何しろ世界がはじまって以来それらは行われ続けているのだ。誰もこの教会を知らない。誰も〈巡回する使徒〉たちの存在を知らない。それで四十六億年も地球が続いているなんて、間違っても知られてはならないのだから。

 

 ここまできた。またここまできた。いつもだ。その繰り返しだ。悪い気はしない。いつも君が居た気がした。僕は多分君と一緒にいる運命なのだ、おそらく。悪い気はしない。何も解決していない。まだ何も始まっていない。でも準備は整った、やっとそう言えるんだ。僕は愛に賭ける。そこから始める。そこから全てをはじめる。徒労に終わったっていい。途中で死んだっていい。愛からしか始まらない。始まることができない。どれだけ馬鹿にされようと……君のことだけは傷つけない。ようやくはじめられるんだ。愛は終わりではない、はじまりの歌だ。何だってオッケーさ……。朝日が射すだろう。僕たちはコーヒーを飲むだろう。世界におはようと言うだろう。今度は世界がおはようと言い返すだろう。

 

Ⅲ (自戒)

 

 言ってはならないことがある。それは言ってはならないが前向きに進むためには必要な事柄である。おそらく大切すぎるがゆえに言ってはならないのである。言いかけた言葉、を、飲み込んで……。君はそれでいい。君の心の内だけに存在すればよい。たとえば、誰かに話したとしても、その誰かは貴方を認めてくれるには違いない。そう、そういうことだ、と。しかし、おそらく話してはならない。けっきょく、しゃべりすぎはよくない……。

 

 言葉を得るために言葉を離す。言葉を放つ。ときに確証。のくせに訂正可能。え、ことば、なんてひどいものだよなんににもなりゃしない! 幸せにならない。言語学的転回など以ての外。言葉をしゃべる存在はひとまず人間であり、こんなにも過剰に話すのは益々人間だけであり、ゆえに人間はすべて瑣末。

 

 君をリメイクする。顔の形にあった髪型……もちろん君の希望に沿って話はすすめられなければならない。ロングにしたいのであれば、僕は顔の形との相性ゆえにショートが似合うんだ、と主張し、結局セミロングに落ち着く。君は唇がとても魅力的だ。いい香りのするリップクリームを持ち歩くというのはどうだろう。香りの種類は豊富、甘いのだけじゃないと思う……柑橘系の香りのリップクリームがあるかどうか探してみる。瞳の大きさはもうそれだけで君の武器だ。……分かってる。結局自分好みの女にしたいだけでしょ? 僕は答える。もちろんそうだ。そうだけど……たぶん僕も「カワイイ」の正体をつきとめたがっている。僕の欲望が。欲望、だ。「カワイイ」に溢れる社会がいったいどこに向かおうとしているのか、「カワイイ」に翻弄される僕はいったい本当は何を求めているのか、心の奥底で知りたいんだ……カワイイ社会、カワイイ女の子、カワイイ男の子、カワイイ区、カワイイ犬、カワイイ猫、カワイイ車、カワイイTシャツ、カワイイ歯ブラシ、カワイイ爬虫類、カワイイ観葉植物。Hello, Kitty!! YOU ARE KAWAII!! ところで君は美しい。ウツクシサは僕にはリメイクできない。リメイクできないウツクシサ、美、美は精神的概念か身体的概念か……これは問い間違い。君と何度も触れあっていく、触れあっていく中で探究していく。

 

 光を崇拝するか、或いは光を手中に入れるか。そうではなく、光の中心と成ることが貴方にはできるか。

 

 自らに向かえ! 自らにカメラを向けるほど自分を勘違いしやすいようになっている。着飾りすぎるな。禅をするのもよいだろう……ただし考え事を無にしてはならないだろう。いつか自分なりの答えを出す。それは時間をかけてやがて他人や家族やさらに将来の自分から覆されるかもしれない、しかしとりあえず答えに辿りつけ、とりあえずの結論に! 世界にカメラを向けろ、そしてその世界に自分が含まれていることを理解せよ。

 

 ヘゲモニーばかり……闘争ばかり……争いばかり……暴力ばかり……世界を遠くから見ることしかできない、近くで感じるにはあまりに刹那に過ぎる。闘争から離脱したい……。なぜ私は暴力を振るうのか? 暴力哲学は常にあなたに必要、だけど君はペンと紙をもっていやしない……怠惰倦怠疲労倦み虚無誤認酩酊朦朧曖昧虚偽惨事。酒はいらない。金もいらない。いや、待ってくれ……! 千円だけ貸してくれ、明日のお駄賃を俺にくれ。

 

 マラルメの詩も、People in the boxの歌詞も、似た所がある……マラルメの詩はいつ読んでもさっぱり分からない、が、言葉の配置がとても綺麗で、単語やセンテンスが愉しげにダンスをしているような、ある種の立体感が見えてくるのだ。People in the boxの歌詞も、大半は訳が分からなく、時々胸の裡を鈍器でえぐるような激しい鋭さが舞い込む。彼らは言葉の先を見据えているのだ。言葉を使いながら言葉ではないものに向いている。言葉の先。いったい、なにがあるのだろうか。

 

 哲学は必要か、人文科学は役に立つのか、という問いは、そもそも日本で成り立つものである。つまり、社会が哲学や人文科学を役に立たせるという前提を折り込んでいる社会では、それらは役に立つのである。哲学や人文科学が役に立たないとしている社会ではそれらは役に立たない。日本は境界例かもしれない。大学等の社会制度は西洋由来でありながら、未だに人々の心的意識は前近代の産物を引きずっている。だからといって啓蒙が必要になるのか? 啓蒙は光、民衆を導く光の活動のことである。神は死んだのだ……。

 

 生まれたことが悲劇だ。ならば生きることを喜劇に変えよう。

 

 僕の戦争論、貴方の戦争論、僕の平和論、彼の平和論、先生の非―暴力論、幼馴染の暴力―哲学、二軒目の広告会社の暴力論、広島の平和論。議論することも戦い。戦いから逃れること。独り言をいうこと。戦争論から逃れて文学の真っ只中へと向かうこと――。

 

 ペンと紙から何が生まれるか? 聖書の新しい解釈、革命理論、ジャン・ジュネの獄中手記……。通常の力とは無縁の、ある種の仕方での力が生まれるのだ。精神的力動。それはすぐさま届かず、家族や友人に届かず、時を超え、空間を超えて、二百年後の地球の裏のみすぼらしい少年によって初めて読まれるのだ。新しい歴史の証人としてお前の名前は刻まれるだろう、墓碑に、紙に、そして様々な人々の脳裏の裡に。

 

 あまりに騒々しい、テレビ空間とネット空間。テカテカにムースを塗り付けた髪の男が言う、「お宅の家に夢は必要ありませんか!」 要らない情報ばかり、不必要なものは私たちの体内の奥底に溜まって異臭を放つ。塵に等しい社会。百本足のムカデが走る、浸食する、私の体内と、テレビ空間を。喰らえ、喰らえ、なじって、喰い尽くし、ただ屍をのみ貪り食う悪魔となるのだ……お前は人間の魂の掃除機であり、ついに人間は蟲たちに取って代わられた。

 

 金色の髪の子、茶色の髪の子、創造性がない。自由な髪の色を許さない社会は、自由を重んじていない。紫色の髪色をしたコンビニ店員、マックで見かける緑色のメッシュが入った男、失恋したあとにショッキングピンクに染め上げた貴方の髪の整い。職業柄が悪い、挑発的だから悪い、そういうのが馬鹿げていると思うのに、いつまでたっても変わらない。

 

 死人が世界を歩く。死人は既にあの世の世界だ。死人は現世に戻ってきている……だが何の為に? 死人の行進。だれだれが、いつ死んだ、島で死んだ、どう死んだ、自殺、他殺、交通事故、強姦、戦争、世界の数だけ死の理由があった。死人は何を求めてこの世を行進するのだろう? さらなる生を求めてか? 死人の一人がこう叫んだ、「なんだぁ、ここも地獄じゃねぇか!」 それを教えるためなのか、つまり、あの世は作られる必要がなく、ここでこうして生きていること自体が死に没入していることと等しいのか。死は栄光となったのだ。今や死にたがる人が一番多く、それを勝ち取ったものは栄えある聖者である――。

 

 敵がいる! 目の前にだ! 敵をやっつけろ! 敵は機械だ、機械をはちゃめちゃに壊してしまえ! 我をぼろぼろになるまで働かせ、金もくれず、ただひたすらに従属させるこの機械……剥き出しの暴力ならここにある。鉄パイプを振り回す、ガラスが割れる、エンジンが破壊される……。人間、お前も歯車の一部だ。人間、お前も所詮〈機械〉の一部品に過ぎないんだよ……。なにぃ、敵は私の中だ! 私を殺せ! 私ごと殺せ! 脳を拳銃でぶっ放した。

 

 日が窓越しに確認できるのは良いことだ……部屋の内と、外で分かれる。涼しいクーラーの風が入って、心地よい。日はそれだけでエネルギー。ベッドに横たわって、まだ許される惰眠にかじりついている人もいる。あと熱いコーヒーさえここにあったらなぁ! 静謐を好む。静謐の中に感じ取ることのできる、心の、精神の、内的情動が好きだ。そういう世界で生き延びたい。それはただの願望かも知れない。でも太陽は誰にも等しく在る。空気のなかの熱の粒子となって……そして窓越しに現れるのだ、幾度も幾度も、はじまりの合図として。

 

 バランスと平衡感覚。平均台。バランスを崩した人、平衡感覚を失った人。無重力。偏り。肥大化。バランスの先はない。しかしバランスといったものに実体はない。私のバランスとは何か、私は一つの軸から成っているのではないか……。平衡感覚を失ったランナーは真夏の太陽に酔って死んだ。狂いやすい熱だ。熱病が今年も流行りすぎている。君も死なないように。熱病と死者…………。

 

 保安組織は一つの巨大イデオロギーである。怪物的イデオロギーイデオロギーの怪物たる化身。「明治の公安はモウ崩壊しちまったよ」――。

 

 自分が偉人ではない、むしろ自分は酷い人間である、と気付くことはとても爽快なことなのだ。諦念とはまた違う。反対に、優秀な人間にとって自尊心の高さは、ほとんど必要条件だ。なぜなら、優秀な人間の個体性を守るため、優秀な人間が荒い世の中を生きていくためには、自己尊厳の高さが保たれなければならないからだ。しかし、自分はとりたててすごい人間ではない、と気付くことは、凡庸な安心感をもたらす。自戒はこのためにある。プライドから距離を取ること。私は安心。

 

 憂鬱な気持ちがやがてやってきた、それは私にとって何故か新鮮な出来事であった――。憂鬱は、自責と絡まりあっていた。自責はほどよい大きさだった。自分を責めることによって、ある種のマゾヒズム的安心感が得られたのであった。それから憂鬱は私の昔の姿であった……。憂鬱な感情をしばし忘れていたが、私は少なくとも憂鬱と共に時を過ごしていたわけだ。憂鬱や自責が、忌まわしいものでなくなった。自戒は誰にでも必要な事柄である。自戒によって人は本来の生活に戻ることができる。自戒もたまにはいいということだ……ところで自戒とはキリスト教由来のものなのだろうか。ドイツ人の精神的なもの……魂を戒めること……。ある種の節制。節制された魂は健康な人生を送るきっかけになるのだ。あまりに自己セミナー的だろうか? しかし正しい自己啓発にいたるのがどれだけ難しいことか……。

 

 自責の受忍、憂鬱へ陥ることの勇気。それがあれば大丈夫だ。私は魂の節度を語っていたのだ!

 

 誰も死なない。誰も、何も、言葉も、塵のひとつでさえ……。(了)