私とラテンアメリカ文学

ツイートしようと思ったけど長くなるのでやめた。

 

「私とラテンアメリカ文学」といっても、僕はたかだか3年、4年くらいしか読んでいないし、まだ読んでいない無数に近い作家の作品を残している。それは幸せなことだ。僕のラテンアメリカ文学との出会いはバルガス=リョサの『世界終末戦争』だった。

 

世界終末戦争

世界終末戦争

 

 

 この作品は初っ端から圧倒されたが、今でも再読したいという思いが強い。それほど作りこまれており、後半で展開も違っており、そもそも読み物として最高に面白い。『世界終末戦争』は「マジックリアリズム」の代名詞だと思う。マジックリアリズムとは何か。僕はそれを「時間」と「場所」の幻惑的な描き方によるリアリズムへの挑戦状と考えているのだが、土地は昔のブラジル(おそらく)で、時間は18世紀か19世紀の実際に起こった宗教戦争をモチーフにしている。しかし、年号的なもの(18〇〇年)とかはほとんど出てこない、特に前半部は。それで、読者はこれはいったいいつの時代のいつの話なのかと「幻惑」させられる。しかし物語は熱くて暑くて異常なほど緻密でアツく…… これから入ったことが、むしろ現在にまで至るラテンアメリカ文学への熱狂を形成したのかもしれない。

 

『世界終末戦争』を読んでいるときは至福だった。同じように『フリアとシナリオライター』や『水を得た魚』を読んでいるときもひたすら至福だった。

 

フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)

フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)

 

 自伝的小説の『水を得た魚』を読んでいると、二つの物語を掛け合わせた『フリアとシナリオライター』のモチーフと執筆過程がうっすらと浮かび上がってくる。『フリア~』の1/4くらいを僕はショッピングモールの休憩所で熱中して読んでいて、その時のショッピングモールの夏の涼しい空調とセットで僕は鮮明に憶えている。あれは至福の時だったと。

 

水声社から刊行されている「フィクションのエルドラード」シリーズに初めて触れたのは、今のラテンアメリカ文学(それは花盛りの頃と比べてやや劣ったものになっているのだろうか?)を牽引する作家の一人、ガブリエル・フアン・バスケスの『コスタグアナ秘史』だった。これも至福の時を過ごさせてもらった。

 

コスタグアナ秘史 (フィクションのエル・ドラード)

コスタグアナ秘史 (フィクションのエル・ドラード)

 

 「コスタグアナ」とは中南米の架空の国のことで、これはジョゼフ・コンラッドの『ノストローモ』を下敷きにしている。ちなみに『ノストローモ』はコンラッドの代表作で、日本では三段組の古書というわけのわからない悲劇を余儀なくされているが、訳者解説によるとスペイン語圏をはじめフランスやアメリカでは『ノストローモ』は『闇の奥』などに続いてよく親しまれているらしい。『ノストローモ』読みたいぞ。

 

メキシコの作家、カルロス・フエンテスに初めて触れたのはなんとも1000頁を超える大作、『テラ・ノストラ』だった(これまた水声社だ)。

 

テラ・ノストラ (フィクションの楽しみ)

テラ・ノストラ (フィクションの楽しみ)

 

 『テラ・ノストラ』についてはまた一つも二つも記事にできそうだが、この作品はズバリ、フエンテス中南米についての自己=国家意識が如実に文字としても現れている。スペイン(やポルトガル)が既存の中南米の王朝を滅ぼして入植したことではじまったメキシコの近代史。フエンエスは評論作品も多く書いていることで有名だ。この自己の出自=メキシコへの飽くなき問いかけは、『脱皮』他多くのフエンテスの作品にもあらわれている。

 

 

生きて、語り伝える

生きて、語り伝える

 

 ガルシア=マルケスの作品については、まだあまり読めていない。その中でも、この自伝の『生きて、語り伝える』は相当面白かった。信じられないほど濃密な自伝だが、その記憶もマルケスらしく曖昧でこれは創作だろ!と突っ込みながら、マルケスのゆったりとした語りにやられて600頁を超えるページ数もそんなに気にならないくらいだ。『百年の孤独』は自分で入手してから落ち着いて読みたい。

 

夜のみだらな鳥 (フィクションのエル・ドラード)

夜のみだらな鳥 (フィクションのエル・ドラード)

 

 またまた水声社の本だが、ドノソの『夜のみだらな鳥』はあと200頁くらいだ。おぞましく、耽美的で、衝撃に次ぐ衝撃、というかんなアホな世界があってたまるかという阿鼻叫喚の世界観で、その独特さは今まで紹介してきた作品の中でも突出している。ドノソは恐ろしい存在だ。これからもっと読んでいこうと鼻息荒くしている所である。

 

その他、コルタサルの『石蹴り遊び』や、ボルヘス、ビオイ=カサーレス、マニエル・プイグ、そしてロベルト・ボラーニョなど積んでいる作家も多い。とにかく面白い。なぜこんなに面白いのか。ラテンアメリカ文学は、衰退しつつあると言われている文学への、今でも新鮮な挑戦でありアイデアであると僕は思う。ラテンアメリカ文学の面白さ、これこそが現在体感できるこれぞ文学というものの極みではなかろうか、とも思ったりするのである。