想像力を掻きたてる時1(小説)

想像力を掻きたてる時 1

 

  出発点としてSはハンバーガーショップの座席に座っていた。それほど人は多くない。時刻は夜八時を回ったあたりだろうか。Sは一人で四人分の座席を陣取り(それだけの人数的余裕はあったからそのことでSに対する非難の言われはなかった)、食べかけのポテトフライとアイスコーヒーを前にしてSは苦悩していた。そうSは混乱していたのだ。何かが起こると彼は予感していた。それもSに現前している周囲の世界ではなくて、Sの内部(の世界に)、ということだ。ともすればSは自身で抱えきれない巨大な「空虚」を有していた。そこは溢れる生命力の源泉でもある。げんにSはスポーツが得意で少年時代は彼が居住していた地域の中でも一、二をあらそう優れたスプリンターだったのだ。しかし彼は自分の能力は、自身の根拠ではないことに早くも気付いた。それは偶然的に彼の身体に付与されたものであり、加齢とともにいつかは消えてしまうものだ。すばやく駆け出すスプリンターとしての彼はいつも生き生きとしていたが、いわゆる青年時代の自分のアイデンティティ問題に直面したとき、彼の足の速さは競技場だけ輝くものであり、この先自分の人生の中でいつまでも自己を照らし続ける光ではないということ。足ではない……たちまちSは混乱した。僕の中心は足ではない……だとすれば何が他にあるのだろうか? そうしてSはさまよえる量産型・現代人の仲間入りをし、他の人よりも幾分おまけに巨大でグロテスクな空虚を代償として架されたのである。それは鉄の錘だ。

 自分という人生が嫌だ。それは誰しもが反芻する至極ありきたりな感情でもある。しかしこの日のSは違っていた。彼は持ち前のスプリント能力で高められた「すばやさ」を持っていた。しかしそれをどのように、どう活用していいのか分からなかった。そもそも「すばやさ」とは何か? ……自分は確かに何か恐ろしい才能とでも呼べるものを持っている、こうして部活動を辞めた後でも、それではその才能はどうやったら発揮される? そもそもその才能とは何か? 自分に酔い痴れて適当な邪推をあれこれ広げているだけなのではなかろうか? この予感とは……何かが起こる、自分の身に。それは自分の意志というものが契機として開始されるのだろうか? Sは「方法」を求めていた。すなわち、Sが「新しい人」になるための方法を……もちろんそんなものは誰も持っていない。誰もがオールド・タイプな人間で、ありきたりで、ダス・マン的人生を送り、簡単に言ってしまえば砂漠の砂のような刹那的でみみっちい存在だ。しかし、Sは確実にその砂漠の砂から「脱皮」をしようとしていた。脱皮……これこそ真の人間の開始である。では、どうやって?

 Sは思案の末それまでうつ伏せていた顔面を上げ、置きっぱなしになっていたアイスコーヒーの残りを一口飲んだ。とても頭がスッキリする。何事も考え過ぎは良くない。冷めてしまったポテトを残っている飲み物でがさつに口に放り込み、勢いよく呑み込んだ。Sはまだお腹がいっぱいになっていないことに気付いた。僕はまだ開始していない、大事なことを……。そうだ、もう一度コーヒーか何かを注文しに行こう。二回目の挑戦。これで僕は自分を変えてやる。自己の変革だ。自己の変革なんて、書店に置いてある自己啓発本を何冊読んでも無理な人は無理。意志、強い意志が必要だ。

 Sは立ち上がって食べ終えたポテトフライとアイスコーヒーを載せたトレイを片付けて、レジに向かって注文をした。対応したのは、やけに色白のどちらかといえば美人と形容した方がいい女性のスタッフだった。「ご注文は何になさいますか?」Sは女性が自分に対して清らかな目線を向けていることに少し恥じらいながら、手元のメニューを見て、ハンバーガーとコーラとアップルパイを注文した。Sは幾分気が紛れていた。「では、商品が揃うまで少々お待ちください」女性スタッフの清らかな声はSの耳に心地よかった。

 再び、四人掛けの真っ白な椅子とテーブル。S一人。まだ手のつけられていないハンバーガー、コーラ、そしてほかほかのアップルパイがある。用意はできた。あとは実践するだけだ。

 簡単に言えば、Sは「飛翔」した。

 

  *

 

つづく